芸術監督の部屋:公立文化施設物語

1-11 創造する劇場

筆者が劇場・ホールを研究するようになって以来、ずっと考え続けてきたのが、「なぜ、日本の公立文化施設はこれだけ普及しているのに、舞台芸術界からは継子扱いにされているのか」ということであった。筆者が出会った舞台関係者から、筆者が公立文化施設について研究をしていると話すと、「あれは劇場ではないよ、何でそんなものを研究するのか」という趣旨の発言をされたことを記憶している。その理由は、公立文化施設の多目的ホールは舞台関係者がかかわらずに作られることが多く、機能面で劇場として使いづらいことに加え、管理運営の点から制約が多いことであった。特に管理運営面では、かつては、夜9時過ぎの閉館時間になると突然電気を消されてしまう、大道具を固定するために舞台にくぎを打とうとすると叱られる、3日以上の連続利用ができない、などといった指摘が多くなされた。さすがにこうした舞台芸術の公演にはそぐわない規則、あるいは管理体制は今では大きく改善されている。しかし、「住民が公の施設を利用することについて、不当な差別的取扱いをしてはならない。」と地方自治法244条第一条に規定される公の施設としての条文を貸館利用者に当てはめる公立文化施設においては、地域の芸術文化の質の向上を目指して自ら最高と思う舞台芸術を創造し、そして、そのために、年間の上演スケジュールを主体的に管理、運営する劇場・音楽堂の概念には到達することが難しかった。「公の施設」の呪縛はそれだけ大きいのである。しかし、同じ公的機関が設置する芸術文化施設であっても美術館、博物館では、年間を通して企画展、常設展などが行われ、美術館・博物館における主体的な活動は博物館法によって当然のものとして容認されており、「公の施設」として行ってはならない「不当な差別」は入場者が対象となる。図書館も同様である。また、都道府県とは異なる法律体系で規定される国が管理する劇場である国立劇場は基本的に施設管理者による主体的な舞台芸術創造活動が理解されている。なぜ、文化ホールを持つ公立文化施設だけ、主体的な舞台芸術の創造が制限を受けるのだろうか。今でも、ここに切り込んだ公立文化施設は極めて少なく、鈴木忠志が設置に強くかかわった水戸芸術館や静岡舞台芸術センターなど、数少ない事例しかない。ただ、貸館運営を施設管理運営上の基本としながらも、芸術監督などを擁し、すぐれた舞台技術者や専門の制作スタッフを雇用し、主体的にオリジナルな舞台芸術を創造しようとする公立文化施設「創造する劇場」が1990年代にいくつか生まれている。例えば、世田谷パブリックシアター(1997)や彩の国さいたま芸術劇場(1994)である。この二つの計画には筆者も深くかかわっているので、その経緯を含めて、考え方を整理しておきたい。

世田谷パブリックシアターは、計画自体は1980年代前半に遡る。当時の世田谷区長は街づくりに造詣が深い大場啓二であった。1980年に世田谷区は「都市美委員会」を立ち上げ、公共施設のデザイン改善に取り掛かる。また、1982年にはまちづくりのための都市デザイン室を全国に先駆けて設置した。都市のデザインを一新しようとした機運のなかで、美術館やホールの計画も持ち上がった。ホールは当初大型のオペラハウスを作るというような意見も出ていた。しかし、オペラハウスは莫大な建設費と運営費がかかることもわかっていたため、世田谷区にあった適切な施設の在り方を研究する必要があるということで、当時、都市美委員会臨時委員を務めていた筆者らが調査にあたることになった。その結果は世田谷区企画部都市デザイン室が1984年に発行した「ヒューマン施設叢書2 ホールの在り方への提言-その利用実態とネットワーク整備のための調査-」にまとめられている。その趣旨は「これまでのホールは多目的ホールとして批判され、専用ホールへの要求が高まっているが、自治体が豊かになったとはいえ、設置できる施設の数は限られているため、どのような施設をどのように作るかのマスタープランづくりが必要になる」というものであり、そこでは、東京都内の舞台芸術活動の分布や必要とされる施設の在り方を含めて、複数の施設タイプを抽出し、そのネットワークとして世田谷区内のホールを体系づけるという考え方を示した。おそらく、このような異なる役割を持つ公共施設ホールネットワークという考え方はまだほかの自治体ではうまれていなかったと思う。そこで述べられている公立文化施設の問題点としては、貸館、多目的という公共ホールの性格が生まれる背景として、公会堂からのながれとして舞台芸術以外の催事機能を持っていること、専属の劇団を持たず各種の文化団体に場所を提供することを主たる目的としていろいろなジャンルにこたえなければならいこと、プロの公演もアマチュアの発表が混然と行われるため、異なる技術水準に対応しなければならないことが指摘され、さらに、近年、近隣自治体との過剰な規模拡大競争により、建設費と運営経費の財政圧迫が大きくなっていることが指摘されている。舞台芸術の創造に関しては、制作プロセスへの配慮が重要であることが指摘され、舞台芸術施設としての機能と催事施設としての機能をホールによって役割分担をする必要性があることを述べている。また、ホールを支える各種組織や地域住民との協力関係の形成も重要であると指摘している。これはのちのホールボランティアなど参加型施設運営に連結する考え方である。また、ホールの設置にあたっては専門的知識が重要であるので、コンサルティング体制を固めることが必要だと指摘している。次に、世田谷区の特徴を東京都内の舞台芸術活動の分布について情報誌「ぴあ」の1年分の公演実績をもとにした調査の結果として、世田谷区は「小劇場活動や稽古場公演が盛んなことからも推測されるように、生活に密着した、小規模であるが多様な活動が特色であり」、「民間の活動に対して、公共ホールを利用した活動も積極的に行われている感がある。」、「世田谷区民の演劇活動への関心のポテンシャルは、他区に比べて高くかつ若々しいといえ、公共側も、文化政策の一環として、住民の期待に応えるため演劇的な活動に対して関心を示してゆく必要がある。」また、「音楽活動においても演劇活動と同様な性格を持つ。」とまとめた。そして、これからのホール整備への提案として、「利用対象を限定した専用ホールと、一般的な利用を対象とした汎用ホールの二本立ての施設整備」、「ホールの専門家はできるだけ小規模で個性的な施設で対応」、「公共、民間を問わず、既存施設の積極的利用」、「貸館運営と自主事業運営は施設を区別して行うべき」、「施設を利用するものが連携して運営する自治方式の採用」、「地域の個性を利用した施設配置」、「文化事業として企画・制作に投資する体制の構築」、「民間の財力、活力の利用」、「ホールの財団化を考えるなら、ここのホールの個性を殺さぬ方法を考えるべき」、「ホールの名称の工夫」など、現在でも十分に通用する考え方がまとめられている。そして整備すべき具体的な方向性として、「世田谷区民会館の準コンサートホールへの改修」、「汎用ホールとして交通の便の良いところにイベントホールの設置」、「専用施設としてのアマチュアの演劇活動のための手作りの芝居小屋を小劇場演劇の場として設置」、「専用施設としてアマチュアの音楽活動のためのミニコンサートホールの設置」、「中規模フリースペース型ホールを民間の商業施設内に誘致」、「小中学校の体育館の整備による汎用ホールとしての区民の集会への開放」、「大学の講堂の区民の催し物への開放働きかけ」、「伝統芸能センターの誘致」が提案された。

この提言は三軒茶屋に予定されていた世田谷区の新しいホールの在り方として、専用ホールを目指した計画へと発展することになる。世田谷区は、この後、具体的な三軒茶屋のホール計画をけん引するために、佐藤信さんを中心とするプロジェクトチームをつくり、劇場に造詣が深い建築家斎藤義や、のちにKAAT神奈川芸術劇場の館長になる真野純や可児市文化創造センターの初代館長になる桑谷哲男など、多くの第一線の舞台技術者、そして、現在日本のアートマネジメント研究の第一人者になっている当時社会工学研究所に勤めていた(株)ニッセイ基礎研究所の吉本光宏が報告書のまとめ役として参加した。綺羅星のような布陣であったが、当時の世田谷区には新しい文化政策を切り開いてゆくというような強い意識があったのである。三軒茶屋は地下鉄から世田谷線への乗り換え地点であったが、都市計画として大胆に世田谷線の乗り場をあえて地下鉄の出口から離し、その間にオフィスビル、商業施設、そして公共施設(現在の世田谷パブリックシアターと生活工房)の複合施設を置いた。このことによって、結果、街に人が出歩く環境が整ったが、これも都市計画としての慧眼である。

世田谷の新しい公立文化施設は演劇を中心とした専用施設として当初から意識をして作られた。そのため規模も600席の主劇場と225席のアダプタブル形式のシアタートラムとによって構成されている。主劇場は佐藤信率いる舞台技術者集団が理想を追い求めて計画したこともあり、当時最先端のハイテクノロジーを持った劇場である。それを列挙すると限りがないが、例えば、客席の床の勾配を変化できる機構である。1階席全体を大きな昇降装置の上につくり、演目の性質によって、緩くしたり、急勾配にしたりするものである。このような仕掛けは実は、古くはヨーロッパの宮廷劇場にも作られていた。そこでは、演劇鑑賞の時は勾配をつくり、舞踏会の時は舞台と水平な客席にするというものであった。佐藤は日本の伝統芸能は絵画を主体とする舞台装置(大道具)は演技者をその前において、正面から見るように考えらえているため、できるだけ緩い勾配の客席が適切であるのに対して、現代のダンスなどの演目は舞台を立体的に眺めるために客席勾配はきつい方がいい、それを同じ劇場で同時に実現できるような仕掛けを考えてほしいと設計者に注文を付けた。

舞台についても様々な仕掛けがある。別稿にて多目的バトンの必要性について述べたが、公立文化施設として、ここでは、大々的に高性能の無段階変速の多目的バトンが導入されている。そして、多目的バトンの動力として、当時ドイツなどで、使われていた動きがなめらかで音の静かな油圧機構が初めて日本で採用された。さらに、この多目的バトン方式は徹底していて、照明バトン,道具バトンの区別もない。すべて同じ仕様であり、照明は吊り替え可能なアルミニューム製のブリッジを必要に応じて好きな位置に適宜吊り替えることができるように考えられた。照明バトンを好きな位置に吊りかえるというのは簡単なようで、技術的には難しい。電源などすべてを移動可能にしなければならないからである。そのほかにも様々な技術的革新がなされた。そして、ここで最も強く主張しなくてはならないのは、設計に参画した舞台技術者の多くが、開館後の職員として採用され、技術スタッフとして働くようになったことである。通常、公立文化施設の設計と技術コンサルタントは設計施工段階でかかわるだけで、運営には参加しない。運営には新しいスタッフが会館の1年前ぐらいに採用される。このような体制では、設計当時の意思がうまく運営につながらない。特にハイテクの劇場設備においては、設計者と運営技術者が異なることによって、うまく活用されなくなることが多い。しかし、世田谷では、このつなぎが極めてうまくいった。ホールの利用者がいろいろな注文を付けても、技術を熟知する最高の技術者が対応してくれるのである。これは、計画段階でかかわった佐藤信が芸術監督に就任したことで制作スタッフと技術スタッフの連携も理想的につながることになった。

世田谷パブリックシアターでは、空間面でも画期的な試みがなされている。限られた空間の中で、大きな練習室や大道具や衣装の製作場を用意したことである。これは「ホールの在り方への提言」から引き継がれた考え方で、そこで舞台芸術の創造を稽古、道具製作、衣装製作、上演と一連のプロセスが達成できるように工夫されたのである。このことをもって、「創造する劇場」という考え方が一貫して行われるようになったのである。なお、世田谷パブリックシアターは佐藤の命名であるが、公立劇場という考え方を初めて全面に押し出したものである。これも小劇場のころから公共性の在り方にこだわってきた佐藤の面目躍如たるところである。

創造する劇場としてもうひとつ挙げておかなければならないのは彩の国さいたま芸術劇場である。さいたま芸術劇場も当初2000人のホールを作るというような発想から始まった。しかし、計画当初から計画にかかわっていた作曲家諸井誠は、これまでにない劇場を作ろうと考えていたようだ。諸井は当時ミュンヘンやバイロイトなどの劇場で働いていたオペラ演出家高島勲に出会い、そこから筆者が紹介され、話を聞きたいと呼ばれた。当時筆者はドイツ留学から帰国したばかりで、博士論文を執筆中であったが、そこで、これまでにない創造する劇場を作ってはと提案した。その後、基本構想や基本計画の策定委員に加えてもらい、より具体的な計画づくりをおこなった。敷地は与野市の工場跡地が考えらえていたが、駅からも少し離れた劇場としては難しい立地であった。当初の計画では大型のホールを考えていたが、周辺には浦和、大宮などにすでに大規模ホールが建設されており、同じようなホールを立地として難しい場所に作るのはどうかと考えた。また、多目的ホールは飽和状態だろうと考え、規模の異なる専用ホール群を組み合わせ、さらに練習から公演まで一体的にできるように大型の練習室を複数設置することを提案した。

公立文化施設(公共ホール)は文化庁が施設整備費補助金を出していた時代から、その設置基準として、展示ギャラリーや練習室を設けるように指導されていた。しかし、多くの施設においては、なぜ、どのような規模の練習室が必要なのか、十分な理解が行われていなかったため、地域のコーラスなどが練習できるような小規模のものが大半を占めていた。舞台に載せるための練習をする舞台のアクティングエリアと同等の練習室の設置が必要だと主張する人は少なかったように思う。当時、第二国立劇場の計画が進行しており、その計画の中で、舞台のアクティングエリアと同等の寸法の練習室が複数設置されることになっており、筆者はその仕様の整備に取り組んでいたため、埼玉のプロジェクトとしては専用劇場群の形成とともに、大型の練習室の設置を複数設定して、そこで舞台芸術を生み出してゆくことを提案した。その計画には当時委員会の委員になっておられた諸井誠と現代舞踊家の藤井公、劇場コンサルタントとしてかかわった国立劇場の立木定彦らも賛同して下さり、具体的な計画として動き出した1。いい方向へ物事が動き出すと、いろいろと追い風が吹くものである。一つは埼玉県が建築家の選定に設計競技を採用してくれたことである。設計競技を経て香山壽夫が選出されたことが大きな転機であった。香山の提案は細長い敷地を有効に利用し、これまでにない公立文化施設を提案した。そのもっとも重要な点は二つある。一つはロトンダと呼ばれる円形の回廊によって、大きなアプローチ大階段と大ホール(演劇劇場)、コンサートホール、小ホール(実験劇場)、映像ホールを結んだことである。複合専用劇場群で構成される新しい公共ホールのイメージが明確に提案された。そして、もう一つは通常、日の目を見ない地下などの位置にあることの多い練習室を駅からのアプローチに近い位置に集中して設置し、光がさんさんと降りそそぐ天窓を持つ幅広のガレリアによって明るく、むしろホールよりもメインの空間として提示したのである。これによって、視覚的にも「創造する」イメージを施設全体に持たせることに成功した。専用劇場もそれぞれ、これまでにない形態をあたえられた。大ホールの舞台は小さいながら、後ろ舞台を持つ本格的なもので、世界水準のホールとして、のちにここを利用するコンテンポラリーダンスの振付家キリアンなど海外のアーチストからも評価が高い。客席も囲み型の形態が採用され、和の雰囲気と洋の雰囲気を併せ持つ美しいオーディトリアムに仕上がっている。コンサートホールはオーソドックスなシューボックス型で素晴らしい響きを持つ。小ホールは実験劇場で、これまでにない形を持っている。イタリアのビチェンツァに16世紀後半に作られたテアトロオリンピコがあるが、張り出し舞台を囲む半円形の客席は、それを彷彿とさせる。また、特に、小ホールは中練習室、道具制作場と一体となり、小劇団が練習から道具の製作、そして公演まで一体的に利用できるような配置計画も採られている。こうした施設デザインとレイアウトは、これまでの施設にないものであり、新しい公立文化施設の幕開けを示すものであった。そして、このユニークな施設群は、計画策定からプロジェクトにかかわり初代館長に就任した諸井誠によるユニークな公演企画と「ロトンダ」というちょっと贅沢な劇場機関紙の発行で創造の生命力を生み出し、さらに、そのあとで就任した蜷川幸雄によるシェークスピア作品の連続上演や高齢者演劇などのユニークな企画によって輝きを増し、厳しい立地条件をはねのけて創造する劇場としての地位を固めた。なお、国立劇場の斎藤穣一が、立木定彦から跡を継ぎ、制作部門を固め、芸術監督を支える創造的な組織づくりをしたことも大きな意味がある。このように、埼玉の事例も世田谷の事例も、クリエイティブな活動を行うには、芸術家、技術者が連携して一体的、継続的に計画、運営されることの大切さを示している。

彩の国さいたま芸術劇場とほぼ時を同じくして、石川県七尾市(当時鹿島郡中島町)に小さな公立劇場が建設された。能登演劇堂2である。当時中島町では、仲代達矢率いる無名塾が創作のための合宿を始め、劇団員の熱意に押された地域住民が炊き出しなどの支援をするようになった。その縁で、演劇を中心の活動に置くユニークな施設「能登演劇堂」が1995年に完成した。人口の集中が少ないこの町で演劇を主体とする活動を展開することはかなり難しいことである。しかし、仲代と地域住民の連携により、演劇鑑賞組織を立ち上げるなど、創客の努力を重ね、ついに1997年に「いのちぼうにふろう物語」で30回というロングラン公演を成功させた。これは地域の規模を考えると驚異的な実績である。この事例からは、地域と舞台芸術創造団体が連携をすることで、新しい地域のうねりが生まれることを示している。これも重要な創造する劇場の事例と言えるだろう。

もう一つ触れておかねばならない創造する劇場の事例がある。それはふらの演劇工場とそれを支えるNPO法人ふらの演劇工房の活動である。富良野は北海道の観光地として有名であるが、そこに1984年から劇作家倉本聰が私財を投じて演劇塾を開設した。塾生は農業などを行いながら集団生活をして劇団活動に励んだ。その過程で、地域でその活動を応援する人々が生まれた。その中心的な存在が篠田信子である。篠田は富良野に計画中の新しいホールを富良野塾の拠点劇場となるように運動を開始した。世田谷パブリックシアター、彩の国さいたま芸術劇場、静岡舞台芸術センターの場合は、その中心に佐藤信、諸井誠、鈴木忠志のような芸術家が、自らの理想とする創造する劇場の在り方を追求したが、富良野ではむしろ市民の応援団が積極的に芸術家と行政の間を取り持って創造する劇場を作り上げたところが興味深い。筆者は、まだ劇場ができる以前に篠田に会って、計画をうかがったが、その熱い思いに心を打たれた。民間劇団の応援団としての市民グループがある種の公益を代表する組織を作り、行政が計画する施設の運営に動き出し、当時生まれたばかりの特定非営利活動促進法(NPO法、1998年)を活用した全国第一号のNPO法人としてふらの演劇工房を設立し、指定管理者としてハードを運営する方法は極めてユニークである。しかし、個性の強い芸術家と個性を嫌う行政を繋ぐ緩衝材として、そして、地域の人々に与える直接的、間接的な恩恵を大切にする非営利組織として、公益的な視点から舞台芸術活動を支えるこの方式は、地域の有志達が集まって非営利組織を作り運営するアメリカのリージョナルシアターと類似の形態であり、私性の強い民間劇団の活動を公共化する普遍的な手法としてこれからもっと注目する必要があると思う。

さて、彩の国さいたま芸術劇場、世田谷パブリックシアターの計画と運営を通して、芸術監督を筆頭にした優れた制作と技術のスタッフの存在、そして、それを理解し支える行政の姿勢と適切な予算配分があれば、公立文化施設においても創造的な活動が継続的に展開できることが示された。その後、東京芸術劇場、兵庫県立芸術劇場、KAAT神奈川芸術劇場、座・高円寺などが、こうした創造する劇場として優れた事業を展開している。しかし、これらはどれもまだ貸館運営の枠組みを完全には脱し切ってはいない。劇場音楽堂等の活性化に関する法律ができ、公立文化施設の法的根拠が地方自治法244条のみに依拠するだけではない新しい制度の見通しができた今日、次に待たれるのは、美術館・博物館のように主体的な制作活動のみによって年間の事業が推進されるような第二世代の創造する劇場ではないだろうか。もっとも、この先進事例はすでに鈴木忠志が基礎を作った静岡舞台芸術センターで実現されている。今は、その動きがほかの地方自治体には継承されずに断絶している状況である。それが継続されるような時代になることを切に望んでいる。しかし、それはおそらく、ドイツのように一つの組織内で、閉じたシステムではなく、地域にひろがる様々な創造集団やアーチスト、技術者を巻き込んだオープンなスタイルで作ることができた時に、我が国の文化政策が世界に誇る新しいパブリックシアターの基盤を整備したことになるだろう。施設の利用者を、ホールを借りる人に想定するのではなく、美術館・博物館のように、チケットを購入し客席に座る客が利用者であると再定義することで、公の施設の意味するところを変えることなく、貸館の枠から外に出ることができない公立文化施設の呪縛を解き放つことができるはずである。

  1. 彩の国さいたま芸術劇場の計画プロセス:県民芸術劇場(仮称)基本構想は1983年~1985年、基本計画が1985年~1987年、そしてその後、県計画策定1988年~1989年で、ようやく1989年に基本計画が策定された。工事は1991年か~1994年にかけて行われ、1994年に完成している。途中知事が後退するなど、いろいろな変化を乗り越えて建設が行われた。
  2. 能登演劇堂、https://www.engekido.com/about.html、accessed 2020.8.10
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