芸術監督の部屋:公立文化施設物語

1-9 新国立劇場計画と公立文化施設計画への影響

70年代、80年代にかけて、多くの多目的ホールが計画、設置される中で、劇場界の大きな話題となったのは第二国立劇場(新国立劇場)の計画である。それまで日本にはなかったオペラハウスという最も高度な舞台設備を備える劇場の設置に向けて、多くの舞台関係者や建築家が関心を持った。特にその中で特筆すべき動きがある。それは「劇場会議」の設置である。1970年に照明家吉井澄雄、舞台美術家金森馨、劇場建築研究者小谷喬之助、演出家三谷礼二、演出家鈴木敬介、指揮者若杉弘ら1が集まり私的な研究会「劇場会議」を結成し、新しいオペラハウスについての在り方を検討した。当時第一線で活躍したハード、ソフトにかかわる広範囲な専門家集団が身銭を切って作った会議であり、そこでは新しいオペラハウスに向けて技術面、運営面において綿密で総合的な検討が行われている。その詳細は吉井澄雄による「照明家人生」2にも掲載されているので確認されたい。劇場会議のメンバーには日生劇場にかかわったメンバーが多く参加している。その意味では、新国立劇場の技術発展には日生劇場のことを語らないわけにはゆかいない。

日生劇場(設計:村野藤吾)は1963年に自主制作を行う民間劇場としてベルリン・ドイツ・オペラ「フィデリオ」で華々しい幕を開けた。日生劇場は若き浅利慶太と日本生命の弘世現社長の出会いの中で生まれた。その仲介をしたのが、東急グループの後藤昇であった。

照明家吉井澄雄は浅利の盟友として参加していたが、杮落としで、ベルリン・ドイツ・オペラを呼ぶことが決まり、ドイツ側と技術打合せをする中で、日本の劇場建築や劇場技術の遅れに直面した。すでに別稿にて述べたように、ドイツは戦前に近代的劇場技術の理論体系を確立し、戦後すぐから、ケルン・オペラハウス、ベルリン・ドイツ・オペラなど多くの優れた劇場建築を完成させていた。それは舞台いっぱいに広がる大きな立体的舞台装置を丸ごと舞台転換するいわゆる4面舞台構成の劇場である。そうした劇場空間の中で作られた演目を日本にそっくりそのまま持ってこようとすると、実に大変なことが起こったのである。建築家村野の設計の客席はアコヤ貝で装飾された洞窟のような空間であり、現在でもとても優れた建築作品で永遠に保存をしてほしい日本の財産である。しかし、舞台については、立地もあろうが、オペラには満足のゆくものではなかった。まず、オーケストラピットが狭すぎた。これはのちに吉井は、日本建築学会の当時の設計資料集成の数値を当てはめて作ったが、実際にはオーケストラが入りきらないものだったと述懐している。舞台間口が横長すぎた。また、ドイツでは、建築的なプロセニアムアーチの後ろに、間口と高さを調整できるポータル(門)と言われる可動の枠が常設されており、それによって、作品に対応した舞台の間口と高さを調節でき、かつ、その裏側は客席から見えないところで、重要な照明や音響の基地として利用するようにできていた。日本の劇場にはポータルという概念がなかった。しかし、ドイツオペラの上演には不可欠のものであり、横長すぎる日生のプロセニアムアーチの幅に対して後付けで対応することになった。吉井は、このように日本の劇場建築と劇所技術の遅れを、身をもって体験することとなり、その経験が、新しい新国立劇場の劇場技術への危機感につながり、新国立劇場の計画には、様々な劇場関連職種の連携と勉強が必要だと思うようになった。それが劇場会議の設置につながっている。

劇場会議の初回頃は劇場建築計画の学者である小谷喬之助が世界、特にドイツの新しい劇場の図面などを資料として提出し、それに対して、舞台関係者が様々なコメントをだしている。第2回の議事録にはモデル劇場が提出されている。それは、古典的馬蹄形劇場の例としてのミュンヘン・スターツオパー、舞台機構の良さのワルシャワ・オペラハウス、イギリスの国立オペラのサンプルとしてのコベントガーデン・オペラハウス、アメリカの典型のメトロポリタン・オペラハウス、典型としてのベルリン・ドイツ・オペラ、中形の典型としてのケルン・オペラハウス、中形の典型としてのデュッセルドルフ・シャウスピエルハウス、中規模のオペラハウスとしてのドルトムント、ギルゼンキルヘン、大小劇場の共存、小規模の実験性のシュタットテアター・ウルムなどが、例示されている。多くはドイツの劇場であることが分かる。検討の結果、オペラハウスの構成として、オペラ・バレエ大劇場、演劇のための中劇場、オープンシアター(アダプタブルシアター)としての小劇場という構成である。これは、最終的に出来上がった新国立劇場の構成と同じである。劇場会議では最初は建築空間の在り方を中心に議論が戦わされた。劇場の規模も話題になっている。当初は大劇場2000人、中劇場は1200~1500人、小は800人という想定が行われた。多目的ホールを作るための会議ではないという確認も行われている。そして、次第に運営の課題に焦点が移ってゆく。どんな演目をやるのか、ミュージカルはどうするのか、舞台芸術の教育機関はどうするのかという議論である。吉井は具体的に劇場総裁を頂点とする運営機構を提案している。劇場総裁とは、ドイツ語でのインテンダント(一般的には劇場総監督と言われている。)のことで、ドイツの劇場組織に準じる芸術家主体のクローズドシステム3の組織構造が提案されている。劇場会議は前半で16回を数え、その成果は文化庁とのミーティングで報告されている。しかし、当時の文化庁の意見は、なぜ民間の劇場ではだめなのか、税金を使う理由を示せ、あるいは西洋の舞台芸術のオペラ、バレエをなぜ国の文化政策でやる必要があるのか、といったある意味不如意な意見が述べられたようである。

劇場会議は後半でさらに14回開催されている。そして、それは日本の舞台芸術の現場を踏まえた現実的な問題、例えば演劇関係者は貸劇場を望んでいるとか、劇場会議が提出している理念的な運営スタイルと現状の日本のシステムとのすり合わせの必要性などが論点になっている。また、この時期になると文化庁の第二国立劇場の計画が具体的に動き出し、予定される敷地(駒場跡地)が提案されるにあたり、ハードとしてのその敷地への対応性など、より具体的な検討が進められている。

劇場会議が開催されていた時期は、筆者はまだ学生であり、直接かかわっていない。ただ、その活動は伝え聞いていた。そして、オペラハウスとはいったいどのようなものか、興味を惹かれ、1978年から80年までドイツ、ハノーバー大学においてアドフル・ツォッツマンのもとで、劇場建築計画を学ぶことになる。そのことは別稿で記載したとおりである。

帰国したのち、博士課程に在学しながら、幸いにも文化庁文化普及課の非常勤職員として第二国立劇場の事務室に勤務し、その建築計画面の資料作りに携わることができた。筆者が参加した時点では、すでに小谷喬之助と小玉功による駒場跡地を想定した施設計画が出来上がっていたが、敷地が、そのあと二転三転し、最終的に現新国立劇場が立地している初台の用地に決定したため、全体の企画の見直しが必要となった。そのため、改めて、4面舞台を基本とする大中劇場とアダプタブルステージの実験劇場を核として、それぞれの劇場に複数の大型の稽古場を設置、さらに現代舞台芸術の情報センターや教育機関を作るという構想を予算規模の中で調整しつつ、空間プログラムを作る作業を行った。しかし、その過程で大きな問題が巻き起こる。それは劇場規模論争である。文化庁が諮問した委員会での大劇場の客席数の結論は、質の高い作品を良い鑑賞条件ものとで見てもらうために、客席数を1600席に押さえるというものであった。しかし、海外からオペラの引っ越し公演を行っている興行側からは、それでは採算がとれない、少なくとも客席は2000席を超える客席が必要だというような議論が起こり、新聞や雑誌を巻き込んだ大論争になった。筆者は建築設計の立場から、2000席を超える劇場では舞台から遠すぎる席が増えすぎて鑑賞環境には無理があること、ドイツの劇場では2000席以下のオペラ・バレエ劇場が多くあり、その鑑賞条件はよく、また公共団体の支援がしっかりしているため、非常に低料金で鑑賞できることの素晴らしさを体感していたため、民間ベースの興行収入を基本とする論争にはついてゆけなかったことを鮮明に覚えている。また、第二国立劇場の計画が具体化するにつれて、目標としていたクローズドシステムの劇場運営も怪しくなった。オペラ団もバレエ団も、劇団もすでに日本には民間組織がたくさん存在し、それぞれが助成金のほとんどない中で切磋琢磨していた。そこに専属のアーチストをもつ新しい舞台芸術集団ができることは、民間の劇団や楽団にとっては脅威でもあった。現代舞台芸術の殿堂を作るという総論には賛成であっても、だれがどのような組織を作るのかという各論に対しては消極的であった。残念ながら、様々な派閥の駆け引きの中で、これをまとめられる芸術界の人物もおらず、本来期待された、アーチストがリーダーシップをとる体制から管理主体の体制へと変貌し、かろうじて、オペラ、バレエ、演劇それぞれの芸術監督の採用とバレエ団と合唱団の設置からスタートすることになり、自主公演と貸館事業を併用する形で折衷された。

しかし、折衷されたとはいえ、画期的なことがいくつかある。一つは、新国立劇場の設置を契機に国立劇場法の一部が改正され現代舞台芸術に関する業務が付け加えられ、翌年には独立行政法人日本芸術文化振興会が作られ、文化芸術振興基金が設置されたことである。政府が541億円、民間が146億円拠出し、芸術団体、文化団体の文化芸術活動を支援しようという枠組みである。それまで、舞台芸術に関する総合的な国の支援はわずかしかなかったが、文化芸術振興基金の設立によって、民間の劇団、バレエ団、楽団などの舞台芸術団体が公正な審査の下で公的支援を受ける仕組みが整ったのである。国立劇場の運営もこの独立行政法人日本芸術文化振興会が行う仕組みになっている。クローズドシステムとしての現代舞台芸術劇場の設置は中途となったが、反対に、我が国の伝統である民間舞台芸術団体を中心として、各地の公立文化施設が上演の大きな受け皿になっているオープンシステムとしての舞台芸術活動への国の支援の仕組みが成立したのである。

もう一つの隠れた成果をここに記しておきたい。それは、新国立劇場の設置に伴って活発化した舞台芸術のための施設の在り方、技術体系が、劇場会議の議論をきっかけに広がり、その中で、新しい舞台芸術施設(劇場や音楽堂)の計画体系が構築されたことである。特に、指摘したいのは、建築家と劇場技術者の連携が進んだことである。1970年代から80年代は多くの民間劇場や公立文化施設が建設された時期である。戦後直後のホール設計はひな形が乏しく、かつ、特殊な事例を除いて、建築家と舞台技術者との連携がなく、今では考えられない欠陥設計が多く行われた。舞台関係者から建築家は敵役であった。しかし、劇場会議やそれに並行する日本建築学会編の建築設計資料集成の編纂をとおして、建築家と劇場技術者が出会い、それを契機に連携して計画に参加する体制が生まれた。

例えば、筆者が最初に具体的な設計にかかわった石垣市市民会館と駒ケ根文化センターにおいては、照明家吉井澄雄に劇場計画のコンサルタントをお願いした。その結果、舞台関係者からは評価の高いホールが出来上がっている。同じ時期に、本杉省三や伊東正示も劇場コンサルティングを開始し、吉井澄雄、藤本久徳、小谷喬之助、立木定彦らも劇場計画に積極的に参加している。そして、当時若手であった、照明家の服部基、劇場音響市来邦比古、舞台監督小栗哲家、佐藤壽晃らが建築家とのコラボレーションを開始し、多くの劇場や公立文化施設の設計に参画した。東京芸術劇場、彩の国さいたま芸術劇場、世田谷パブリックシアターなど、現在でも東京周辺の舞台芸術創造をけん引する劇場の舞台設備は彼らの関与がなければ成立していない。愛知芸術文化センター、びわ湖ホール、兵庫県芸術劇場、浜松アクトシティホールなど、各地の高機能劇場の計画もこうしたコンサルタント体制の成果である。

また、筆者らは、新国立劇場や各地の公立文化施設の計画に対して、適切な資料を提供することを目的に、建築関連雑誌をとおして専門的なデータを提供した。そこにはハードばかりではなく、ソフトの在り方についての提案もたくさん含まれている。建築専門雑誌での発表であり、今日では目に触れる機会は少ないが、関心ある方は図書館等で確認していただけると幸いである。特に、彰国社出版の建築文化1982年1月号には「劇場、オペラハウス 空間と創造のために」4と題する特集を組んでいる。そこでは、ドイツを中心に当時の最先端の劇場の空間構成が詳細に示されていると同時に、劇場を支える運営組織についても、これまでに紹介されていない貴重な資料を提供している。また、建築文化1983年8月号には、「劇場PART2 公共ホールのゆくえ その設計と運営のために」5と題する特集を組んだ。そこでは、公共ホールのこれからの在り方について、建築系の雑誌であるにもかかわらず、運営の在り方にも切り込んだ検討がなされている。

  1. 名簿には金森馨、小谷喬之助、沢田祐二、鈴木敬介、高崎保男、藤本久徳、三谷礼二、諸井誠、横井茂、吉井澄雄、若杉弘、倉橋健、塩谷宏、田原進、石井聖光、中山悌一の名前が掲載されている。
  2. 吉井澄雄、照明家(あかりや)人生、早川書房、2018
  3. クローズドシステム:清水裕之が提案した用語、舞台芸術を作る上に必要な空間や組織がすべて一つの機関としてまとまっているもの。
  4. 特集 劇場 オペラハウス その空間と創造のために、建築文化、1982年2月号、彰国社、pp.37-116
  5. 特集 劇場PART2 公共ホールのゆくえ その設計と運営のために、建築文化、1983年8月号、彰国社、pp.37-124
あいち共同利用施設予約システム
近隣飲食店情報
あおい倶楽部
 

ページトップボタン