芸術監督の部屋:公立文化施設物語

1-8 専用ホールの登場

戦後すぐの時代に神奈川県立音楽堂や群馬音楽センターなど、クラシック音楽の演奏に特化したコンサートホールが誕生していたことはすでに述べた。しかし、こうした先駆的な試みは続かず、60年代、70年代にたくさん誕生した文化ホール型の公立文化施設は多目的ホールを中心に据えた。それは、すでに見てきたように、施設の運営が基本的に貸館運営であり、毎日利用が異なること、そして、そもそも専属の楽団や劇団、舞踊団などを持っていないことが要因である。別途後ほど考察することにするが、1960年代から1980年代に至るまでに、多目的ホールの技術は大幅に改善され、舞台芸術関係者が初期の多目的ホールに抱いていた、役に立たない、あるいは欠陥だらけの多目的ホールという印象は、現在では大きく払しょくされている。しかし、いくら技術的改善が進んだといっても、多目的ホールはクラシック音楽に特化したコンサートホール、演劇に特化した演劇劇場、オペラやバレエに特化したオペラハウスには、建築音響特性、舞台設備、楽屋のしつらえ、運用体制などの点でかなわない部分が多い。特に建築音響特性については、多目的ホールは難しい課題を残してきた。セイビンの建築音響理論によると、ホールの響き(残響時間)はホールの室容積(空間の大きさ)に比例し、全壁面の吸音力に反比例する1。一般の多目的ホールでは響きをクラシックコンサートに最適な長さに長く設定することは難しい。なぜなら、そのような長い響きの下では、演劇、講演などの利用においては、言葉が聞き取れなくなってしまうからである。ちょっと極端であるが、全体が石で作られ、巨大な内部空間の容積を持つヨーロッパのゴシック寺院においては、音が発せられたら消えることなくしばらく余韻が残る音響特性にあわせてつくられたグレゴリオ聖歌のような音楽やそれを支えるようなパイプオルガンが発達した。しかし、そこでは普通の言葉の発話はほとんど聞き取ることができない。

多目的ホールでは、異なる響きを要求する様々な演目に対応するため、妥協をしなければならないのである。例えば、1999年に改修後の東京文化会館大ホールの残響時間は満席・500Hz、室容積17300㎥の条件下において1.8秒2に設定されている。この残響時間の設定は綿密な計画の上で設定されたものであり、クラシック音楽の愛好家からも東京文化会館大ホールの響きは高い評価を得ている。しかし、専用のクラシックホールにおいては、もう少し長い響きが求められてきた。そのためには、大きな室容積を確保しなければならない。1982年に大阪に建設されたザ・シンフォニーホールは、戦後初期のコンサートホールを除いて、日本で最初に本格的に計画されたコンサートホール(音響設計 石井聖光)であるが、その残響時間は2秒に設定された。そして、これはプロジェクトに深くかかわった指揮者朝比奈隆を筆頭とする計画者全体の到達目標3であった。1986年に完成したサントリーホールでは21000㎥の室容積を確保して2.1秒(満席、500Hz)の設定になっている。これらのコンサートホールは民間の経営者によって計画されたもので、利用の偏りに気を使う必要がなく、また話題作りには特化した特徴を持つことが求められたことも実現の背景にあったのであろう。そして、多目的ホール設置競争が落ち着き、地域の資金も潤沢になってきた1980年代には、このような専用ホールを公共施設も見習うようになり、大きく促進されたのである。

公立文化施設で専用ホール志向を大きく推し進めたものに、宮城県中新田町のバッハホール(684席、1981年)がある。田んぼの中に突然大変響きの良い公共施設が出来上がった。これはのちに宮城県知事になる当時の町長本間俊太郎のイニシアチブで作られたもので、開館後多くの音楽家が招かれ演奏を行い、その優れた響きに魅せられて多くの情報発信をしたことで一躍有名になった。実は、このホールは厳密に言うと舞台袖や吊りもの設備などを備えた多目的ホールに分類されるべきものである。しかし、NHK技術研究所の指導により、客席に対して大きな空間ボリュームをもち、残響可変装置を備えることによって、非常に長い響きを獲得することに成功したのである。

このように専用ホールへの志向は、通常の音響特性には不満の大きかったクラシック音楽からの支持を得ながら、コンサートホールの形で多目的ホールからの脱皮を図られた。演劇劇場を公立文化施設の中に作る動きはコンサートホールに比べてゆっくりしている。実は1978年に、ひっそりと兵庫県尼崎市に兵庫県立尼崎青少年創造劇場(愛称:ピッコロシアター)が立ち上がった。これは基本400席の多目的ホールであるが、客席と同じ広さの舞台空間を持ち、演劇に非常に適した劇場を当初から意識したものであった。設計はなんと、兵庫県が担当している。館長に民間ホールで制作をされていた山根淑子が就任した。施設には演劇関連の図書を多く所蔵する図書室も設置され、小ホールはピアノのリサイタルなどに使うことができる音楽ホール仕様として作られ、また、実験演劇もできる中ホールがいわゆるブラックボックス形式として作られた。館長の優れた指導力により、1983年には将来の指導者、創造者を作ることを目指してピッコロ演劇校が開設され、それをさらに発展させて、卒業生を中心に1994年に兵庫県立ピッコロ劇団が設置された。

ピッコロシアターのような事例は例外的であり、演劇劇場の形は専用ホール群という新しい公立文化施設の形として表れてくる。実は、この原型も神奈川県の施設にある。神奈川県立音楽堂が設置された後に、近くに神奈川県青少年センター(1962年)が同じく前川國男の設計にて建設された。この施設はホールを含んでいたが、それは多目的ホールとはいえ、演劇に焦点を当てて計画されていた。施設は離れていたが、演劇や音楽に役割を分離してゆこうという姿勢は文化行政先進県としての神奈川県ならではのものであった。

こうした事例を踏まえて、1980年代には、用途の異なる専用ホールを群として一つの公共施設にまとめることで、多目的な利用に対応しようという考え方が実現される。その嚆矢が熊本県立劇場である。設計はやはり、晩年の前川國男であるところが興味深い。劇場建築の専門家である日本大学教授の小谷喬之助が助言を行ったこの施設は、大ホールをクラシックコンサートホールに、中ホールを演劇劇場に用途をはっきり絞り込んで計画された。1990年に磯崎新によって設計された水戸芸術館もコンサートホールと演劇劇場、そして美術館を併設した専用施設群である。この施設で、特に重要なのは芸術監督制度を導入したことである。この計画には演出家鈴木忠志が深くかかわっていたが、彼は日本におけるリージョナルシアターの確立を強く思い描いていた。そして、劇場は芸術サイドが強いイニシアチブを握るべきだと考えていた。そこで、できるだけ芸術監督の位置を高く設定することに務めた。初代館長には音楽評論家、吉田秀和が就任し、演劇劇場の芸術監督に鈴木が就任している。水戸芸術館は公の施設でありながら、単なる貸館にすることなく、芸術監督が企画をリードし、座付きの楽団として水戸室内管弦楽団が設置され、演劇劇場には、ACMという劇団が設置された。このような施設は世界各地にはリージョナルシアターとして数多く存在しているが、日本ではこれが最初の事例である。鈴木は公立の劇場においても、芸術監督は予算執行権、人事権をすべて持つべきだという考え方を持っているが、水戸芸術館ではかなりその考え方に近づいた。しかし、完全な形での劇場統括は難しかったのか、のちに関与する静岡県舞台芸術センターにおいては、さらにこの考え方を推し進め、定款において、芸術監督の権限として、芸術局の事業の企画立案、芸術局の予算案の作成、芸術局の職員の人事案の作成を与えている4

のちに創造する劇場として、別稿にて紹介する彩の国さいたま芸術劇場(1994年)も同様の考え方によって作られている。さいたま芸術劇場は90年代になって実現したが、計画自体は80年代初めから始まっている。筆者も計画づくりに参画したが、当初は2000人規模の多目的ホールをつくる計画であった。ただ、すでに建設予定地周辺には複数の2000人クラスの多目的ホールが存在したこともあり、大ホールを一つ作るのではなく、熟慮の末に776席の演劇・ミュージカル・バレエ・ダンス・オペラ等に特化した専用ホール、604席の音楽専用ホール、最大346席の実験劇場、150席の映像ホールに分解し、専用ホール群として設置する方向に舵を切ることができた。また、ここには稽古、練習施設を豊富に設定したが、このことについては別稿にて考察する。演劇に特化した施設としては、世田谷パブリックシアター(1997年)が重要な施設である。この施設についても別稿にて詳細に考察する。

さて、専用ホールへの志向はこのように育ってきたが、それでは建築として、コンサートホールと演劇劇場はどのように違うのか、まとめておきたい。

コンサートホールはクラシック演奏のためのホールである。クラシックコンサートホールといってもその客席規模や音響特性によっていろいろなバリエーションがある。いわゆるフルオーケストラを舞台にのせるためには広い舞台と多くの観客を収容する客席規模が必要になり、一般的には2000席クラスの大きさが求められる。一方室内楽を中心に企画を組み立てる場合には300席、あるいは400席といった小規模なホールが期待される。これらの客席数は、その空間の響きの程度と深く関連する。残響時間とは、初めに発した音のエネルギーレベルが百万分の一に減衰するまでの時間をさすものであり、音響理論上は、同じ響きの体感を得るには、小さいホールよりは大きいホールにおいて、長い残響時間特性が必要になる。残響2秒とよく言われるのは2000席クラスのコンサートホールを対象とした場合であり、それを小ホールに適用しようとすると響き過多になるのである。このところを理解していない人が多いのが残念である。

さて、話題が逸れたが、クラシックコンサートホールにとって重要なのは、長い響きを獲得するために、舞台と客席を一体の空間として継ぎ目がなく、かつ、その周辺の壁は適切に吸音力と反射方向を調整した密な壁によって囲まれていることが重要である。穴や隙間があると、そこで音が吸われて必要な音響特性を得ることができない。多目的ホールでは、演劇等の舞台美術を多用する演目との調整を図るために、舞台上には可動式の音響反射板が設置される。しかし、この可動式音響反射板を隙間なく設置するのは、技術的に大変なことであった。多目的ホールの改良はこの隙間つぶしに充ててきたと言っても過言ではない。専用のコンサートホールでは、用途を演奏会に限って設計することができるので、矛盾がすくない空間を設定できる。ただ、オルガンの設置は多くの議論を要する。実は通常のオーケストラの演奏においては、あまり長すぎる響きは細かいパッセージなどが分からなくなり、不満を生むことになる。しかし、オルガンだけは、オルガンが石造りの教会で成長したこともあり、とても長い響きを必要とする。実はオルガンとオーケストラ演奏は音響設計上両立がむずかしい課題なのである。よく、クラシックコンサートホールには、その格を上げるためにはオルガンの設置が必要だという主張を耳にする。たしかにオルガンの演奏は魅力的である。しかし、他方でオルガン曲の愛好家はそれほど多くない。オルガンを選ぶのか、オーケストラの演奏をメインにするのか、しっかりと議論したうえで設計することがとても重要である。音響的にはこの二つはどこかで折衷することが必要なのである。

これに対して、演劇を中心にしたホールにおいては、舞台空間の設備の充実が必要不可欠である。舞台設備の充実のためには、まず、舞台の広さが確保されている必要がある。

舞台と客席が額縁といわれる枠(プロセニアムアーチ)で区切られているプロセニアム形式の劇場の場合、プロセニアムアーチの幅と高さがすべての舞台寸法の基本になる。演技をするアクティングエリアは最大でプロセニアムアーチの幅と舞台後ろに設置されるホリゾント(舞台の後ろを照らし、無限の空間を表現する幕)までの奥行きで規定される。実は多目的ホールの間口はフルオーケストラによるクラシックコンサートと歌舞伎・日本舞踊のしきたり(定式)によって規定されてしまうことが多かった。歌舞伎の間口は20m以上を要求される。クラシックオーケストラの場合は日本ではなぜか18m以上を要求される。現在の多目的大ホールの間口が18m以上のものが多いのはそれが理由である。しかし、海外、特に本場のヨーロッパにおいては、もちろん、例外はあるが、大半の著名な大劇場においては、オペラ・バレエの舞台間口は16mが基準となっている。日本の多目的ホールの間口は広すぎるのである。実際に日本の多目的ホールの舞台におけるオペラ公演を見ると、両側1間(1.8m)ほどは、袖幕や舞台装置で縮めて使っていることが分かる。それに対して、日本の多目的ホールは舞台の有効奥行きが浅い。舞台のアクティングエリア(実際に演技に使うエリア)は正方形が基本である。正方形のアクティングエリアにおいてさえも、客席からは斜めに見えるため、視覚的には奥が浅く見える。いわんや、奥が浅い舞台では、舞台装置を飾って、その前で演技をするには狭すぎるのである。舞台の有効奥行きは緞帳ラインからホリゾントの位置までの距離である。実際には、ホリゾントの後ろに作業のスペースが必要だし、また、緞帳ラインより前にも若干のスペースが必要である。計算するとわかるが、大劇場の場合、舞台の奥行きは18mから20m程度は必要になるのである。残念ながら、70年代ぐらいまでにできた公立文化施設の舞台の奥行きは間口が大きい割に、奥行きが浅いものが多いのが実情である。そして、さらに多くの課題があるのが、舞台袖の狭さである。通常、袖幕一文字のスペースを含めて舞台の有効幅はプロセニアム間口の2倍である。しかし、この幅には、舞台転換のための大道具等の引き込みスペースは含まれない。オペラなどではよくつかわれる舞台間口いっぱいの大道具を舞台袖に引き込むにはその倍以上のスペースが必要になる。残念ながら、こうした広さを持つ舞台は1980年代後半まではほとんどなかったと言える。

岡崎市民会館は、やはり、改修前は広すぎる間口と狭すぎる舞台奥行であった。大改修において、思い切って、舞台の間口を少し狭め、かつ、あえてプロセニアムアーチの位置をオーケストラピットまで舞台を張り出して奥行きを大きく確保した。この改修により、ダンスやバレエ、演劇など、広い舞台空間が必要な演目を支障なく上演することができるようになった。

演劇等に特化した専用ホールは舞台設備の充実も重要な課題である。多目的ホールの舞台設備、特に舞台上部の吊り物設備は、いろいろな演目に即座に対応するように、可動式の音響反射板、舞台照明設備、映写幕、黒い袖幕・一文字などが、常時吊り込まれている。そして、大道具などを吊り込むフリーなバトン(空バトン)はほとんどない。これでは複雑な舞台演出には対応できないのである。海外の演劇専用ホール、あるいはオペラハウスでは、照明に供するバトンやブリッジのほかは、すべてが均質に15cmから30cm間隔でしつらえられた空バトン(多目的バトン)である。これらは数十本設定されており、あらゆる舞台の設営に対応する。舞台関係者から、多目的ホールは無目的ホールといわれる大きな理由は、この不自由な舞台上部のしつらえにあるのである。この改良については、原稿を改めて述べることにしたい。

最後に述べておきたいのは実験劇場の系譜である。第2次世界大戦後、世界の劇場シーンにおいては、プロセニアムアーチを飛び出して、客席の中で演技する新しい演出が各地で試みられた。すでに戦前から表現主義演劇のマックス・ラインハルトはこうした試みをしているし、ヘレラウのダルクローズもアドフル・アピアと協働で四角い箱の中での演出を手掛けている。戦後は、こうした先駆的な演出の試みを受け入れる実験劇場が実際に建築されるようになる。1957年には建築家ゲルハルド・ウェーバーの設計によるマンハイム・ナショナルシアタ―が完成し、舞台を客席が左右から挟む独特の実験劇場が作られた。また、少し時代が下るが、特に日本に大きな影響を与えたのが、1976年に完成したイギリスのロイヤルナショナルシアターである。特に、小劇場のドーフマン劇場は舞台と客席が一体化された、黒い箱であり、いわゆるブラックボックスの劇場として参考にされた。

こうした実験劇場の公共施設への導入は日本においては、芦屋ルナホール(1970年)が嚆矢である。劇場建築に造詣の深い山崎泰孝が坂倉建築研究所時代に作ったホールで、ホール回りの壁はコンクリート打ち放しの上に、金網をかけたアンダーグラウンド劇場スタイルであり、また舞台はプロセニアムを外してセンターステージ形式にもできるような可変型の劇場であった。今でもかなり前衛的な空間であるが、日本では実現する時代が少し早かったのかもしれない。ようやく、アンダーグラウンド演劇が社会の注目を浴び始めたころで あり、その空間を生かして上演できる演目は限られていた。

  1. T=0.161V/A (V:室容積 A:吸音力(室内平均吸音率 x 室内総表面積))
  2. 永田音響設計、プロジェクト、https://www.nagata.co.jp/sakuhin/renovation.html、accessed 2020.4
  3. The Symphony Hall、ホールの歴史、ザ・シンフォニーホール残響2秒の軌跡、http://www.symphonyhall.jp/hallguide/history.php, accessed 2020.4
  4. https://spac.or.jp/foundation_rule
あいち共同利用施設予約システム
近隣飲食店情報
あおい倶楽部
 

ページトップボタン