芸術監督の部屋:公立文化施設物語

1-7 実験劇場と小劇場

1960年代にはじまり70年代を通して大きな盛り上がりをみせたアンダーグラウンド演劇の活動は、戦後の劇場文化に大きな影響を与えた。ここでは、特に劇場建築への影響を中心に振り返ってみたい。劇場建築に大きな影響を与えたアンダーグラウンド演劇の拠点は、佐藤信、串田和美らによるアンダーグラウンドシアター自由劇場(1966年)、鈴木忠志の早稲田小劇場(1966年)、唐十郎の紅テント(1967年)、寺山修司率いる天井桟敷館(1969年)、渋谷ジャン・ジャン(1969年)、黒テント(1971年)、テアトル・エコー(1970年)、そして時代は少し下がるが、利賀山房(1976年)、新利賀山房(1980年)などである。彼らは、新しい社会の在り方を目指して、学生運動などと並走しながら、従来の新劇活動とはことなる地平での演劇を模索した。かれらは演劇が行われる場所(空間)に敏感で、いわゆる舞台と客席がプロセニアムアーチで分離され、固定概念化された劇場の在り方に強い疑問を持った。とはいえ、その疑念は、必ずしも最初から芽生えていたわけではなさそうである。佐藤信は俳優座養成所の同期生、下級生や演出家の観世榮夫らを誘い、劇団「自由劇場」を結成し、西麻布のビルの地下、20坪の空間に拠点を作ることを決めた。設計には、のちに多くの劇場・公立文化施設の設計に携わることになる建築家斎藤義(自由劇場の立ち上げに参加した劇作家斎藤憐の兄)が携わった。斎藤義と佐藤信には、筆者が直接当時の劇場設計についての裏話をお聞きしている。当初は20坪という極めて小さい空間にもかかわらず、舞台と客席を分離してプロセニアムもどきの枠を作ったのだそうだ。しかし、そこで、様々な上演を行う中で、その仕切りは意味がないことに気づき、どんどん建築的設備をはぎ取っていったということである。そして、のちの黒テントでは、トラック2台で引っ張って張り上げる非常にユニークなテント構造の劇場を創り上げたが、そこでは客席と舞台は一体化された空間となっていた。従来の枠組みを自ら体験的に外すことで、彼らは新しい演劇空間の在り方を見つめたのである。また、佐藤は、このテントを使って公共空間の公園での公演を積極的に仕掛けた。これは、だれでも使うことができるはずの公共空間が実はとても使いづらい、規制の大きな場所であると気づき、そこから社会の制度に疑問を投げかけるものでもあった。このような考え方に、のちに、芸術監督として活動し、開かれた劇場としてのパブリックシアターの概念(世田谷パブリックシアター)を提出することになる佐藤の原点があるように思う。

鈴木忠志が作り出した劇場空間の新しい在り方も特筆しなければならない。早稲田大学の学生劇団から始まり、卒業後大学の近くの喫茶店の2階に早稲田小劇場アトリエをつくり活動を始めた。1976年に彼は突然劇団を引き連れて当時本当に山奥の山村であった利賀村に移り住み、合掌造りの民家を改修し小劇場を作った。鈴木はスズキ・トレーニング・メソッドを生み出し、世界の演劇人から評価されるようになる。そして、利賀村には毎年世界の小劇団が結集するようになり、1982年からは国際演劇祭利賀フェスティバルを開催する。その間に、建築家磯崎新の設計による新利賀山房などを次々に建設し、野外劇場、室内劇場など複数の小劇場の集合体が形成された。民間の一演劇人による私的活動に始まるこの動きは、鈴木の演劇を慕って遠路訪問する多くの文化人によって世界に名前を知られることになった。当時は、わけのわからない若者たちが村に集まったと、いぶかしそうにしていた村民も、ここに多くの観客が押し寄せ、結果として、ひどい砂利道だった道路が、整備舗装されるようになるなど、間接的な利益をえることになり、改めて文化芸術活動の社会へ与えるインパクトの大きさに気づくようになった。鈴木はそのあとで、建築家磯崎新の設計で水戸市に水戸芸術館(1988年)を作り、音楽評論家吉田秀和を館長に抱き、演劇分野芸術監督となり、これまでの公立文化施設にはない、専属劇団や楽団を持った新しい施設のかじ取りを行った。そして、さらに、生まれ故郷の静岡県の協力のもと、日本平の広大な場所に静岡県舞台芸術センター(1995年)をつくり初代の芸術監督となった。佐藤と鈴木は目指す演劇の質も空間も全く異なるが、二人に共通するものがある。それは、演ずる「場所」への強い思いであり、また、その場所を運営する社会の仕組みへの興味である。場所への思いは、どちらもいわゆるプロセニアム形式の劇場を打破し、形にとらわれない自由な空間を、演劇的手法によって劇場化することで達成している。また、アウトローとしてのアンダーグラウンド演劇の旗手から、最も制度的な公共劇場の芸術監督へ転身するという二人の変身は、奇異に感じる人もいるようだが、実は、当初から演劇を社会制度の枠組みの変革手法として意識していたと思われ、その点で、日本の公共劇場に大きな変革を促した、世田谷パブリックシアターと水戸芸術館、静岡県舞台芸術センターへの道程は極めて筋の通った流れであると筆者は考えている。

唐十郎の活動は鈴木や佐藤とは異なり、公共劇場への動きにはつながっていないが、紅テントは新宿花園神社や上野不忍池などのパブリックな場所をつかって社会に大きなインパクトを与えた。また、演劇の最後にはテントを開き、都市の遠景を見せるという演出によって、演劇を越えた、都市の生きざまを感じさせ、大きな感動をあたえたことは、シェークスピアが求めた、大宇宙の中の「劇場」に通じるものがあり、既成の劇場空間では味わえない空間の広がりの大きさを示すことに成功し、新たな劇場空間の在り方を大きく指示したと言える。

寺山修司は、むしろ、その美学と哲学的な志向で社会にインパクトを与えたが、特に、街頭劇「ノック」では、日常空間と非日常空間が強制的に交錯するシチュエーションをつくりだすことによって、社会秩序ぎりぎりの危険な交わりを生み出した。

上記の動きは演劇の解体と再編成を演出家の立場から行ったものであるが、渋谷ジャン・ジャンは少し趣が異なる。渋谷の東京山手教会の地下に作られたこの小劇場は、高島進がオーナーとなって創り出したものである。今は公園通りという呼び名で親しまれているが、当時は、暗くさびれた場所であり人通りもほとんどなかった。オーナーの活動によって、演劇やファッションショーなど多彩なプログラムが繰り広げられ、遅れて作られた西武劇場などと一体的に、先駆的な文化を発信する場所としての渋谷のイメージを構築した。渋谷ジャン・ジャンの空間は死角が生じやすいL字型に曲がったむき出しのコンクリートの空間であった。劇場空間としては無理が多かったが、その不便さを逆手で作り上げられた作品は観客に今までない存在感を生み出して大きな刺激を与えていた。筆者は特に出口典雄が演出したシェークスピア劇のシリーズが記憶に残っている。

渋谷区恵比寿に作られたテアトル・エコーも、井上ひさしや熊倉一雄が拠点にした劇場であり、70年代の小劇場建築を把握するうえでは、忘れがたい建物である。設計は舞台装置家でもあった建築家孫福剛久である。つまり、彼は、個々の作品の舞台装置もその入れもとしての劇場も同時に設計したのである。劇場は、見かけはしゃれたプロセニアム形式である。アンダーグラウンド劇場のようなとげとげしさはない。しかし、そこにはいろいろな演出マジックが隠されていた。プロセニアムの後ろの懐、すなわち、役者が退出するスペースの奥行きはほんのひとが一人通れるほどの狭さであり、思いっきり退場すると壁にぶち当たるものであった。それを、さも、深い奥行きのある袖があるように演技をさせられたらしい。そして、特筆すべきは床の仕掛けである。客席は狭いながらも段床になっていて、後ろに行くほど高く持ち上げられ、見やすい客席勾配を作っていた。しかし、これは実際には、大道具の平台で構成されており、それらの平台は移動可能な束(垂直の小柱)によって自由な多さに設定が可能なように作られていた。客席のみならず、舞台もすべてそのシステムであり、複雑な大道具を自由な発想で組み立てられるようになっていた。このシステムは、のちの銀座セゾン劇場を皮切りに、いろいろな劇場で応用され、奈落からの出入り、舞台装置の自由な設定などを期待される劇場においては今でも多く用いられている。

小劇場は建築家にとっても興味深いものであった。私も含め、劇場コンサルタントの伊東正示や草加叔也、日大名誉教授の本杉省三などが、劇場について多く学習したのも、これらの小劇場であった。小劇場の自由な空間性は、小劇場運動において優れた戯曲を得ることによって、その後の劇場建築の在り方を明確に指し示すことができた。

このように、1960年代から70年代にかけて作られた小劇場は、既成の劇場空間からの脱皮のみならず、社会と劇場の在り方、あるいは都市と劇場の在り方も含めて大きな課題を提出し、また、その解決の一端を示したものとして理解をしておかなければならないと思う。

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