芸術監督の部屋:公立文化施設物語

1-4 戦後の公立文化施設の胎動

先に、日比谷公会堂のところで述べたように、公会堂の劇場化は、行政が希望したというよりは、むしろ、建築家や音響設計の技術者が海外の先端的建築を見ながら、それらと歩調を合わせようと努力した結果ではないかと考えられる。特に、戦後の公立文化施設における先進事例の開拓に関しては、前川國男の功績を語らないわけにはゆかない。建築というハード主導ではあるが、前川國男は神奈川県立音楽堂(1954年)、京都会館(1960年)、東京文化会館(1961年)など、戦後の文化ホールの大きな改革を行った。

戦後少しずつ国民に余裕がうまれると同時に各地で、市民の文化活動が活性化を始める。新聞社や百貨店がまず、美術館や劇場などを併設する建物を新築し、毎日のように文化イベントを開催し大量の鑑賞者を動員するようになる。音楽や演劇などの舞台芸術の鑑賞も盛んになり、クラシック音楽は、一種のあこがれもあり多くに聴衆を引き寄せた。このような機運を反映して作られたのが、神奈川県立音楽堂である。当時最先端の音響技術が使われて世界的に評判になっていた、イギリスのロイヤル・フェスティバル・ホールを参考に、東京大学生産技術研究所の研究者であった石井聖光が音響設計を担当した。先生は、その後、様々なホールの音響設計を手掛けて日本のホールの音響設計の第一人者となる方である。同じように、建築家アントニー・レイモンドは群馬音楽センター(1960年)を設計している。この建物は、地域のオーケストラが成長する過程を描いた映画「ここに泉あり」(1955年)がヒットすることで注目をあびた群馬交響楽団の拠点として構想されたもので、当時の最先端の建築技術(折板構造)を使った大変ユニークな建築として歴史に残るものである。また、この建設費3億円のうち1億円を市民の寄付で賄ったことでも有名である。

神奈川県立音楽堂や群馬音楽センターのようにクラシック音楽に特化するような専用ホールがこの時期に建設されたことは特筆に値する。しかし、こうした専用ホールの動きは例外的なものであり、一般的には多目的ホールとしての文化ホール型公会堂が建設される。文京公会堂などがその典型事例である。多目的ホールが選択された理由は、文化ホールが地域の様々なジャンルの需要を受け入れなくてはならない状況があったからである。当時は、習い事としての日本舞踊、三味線、琴、尺八、詩吟、剣舞などの伝統的な文化活動も盛んであり、また、オーケストラ、合唱、演劇、バレエなどの西洋舞台芸術の活動も市民権を得るようになり、多くの市民が参加するようになった。さらに、新聞社やプロモーターが計画するプロの公演場所としても重要な拠点となってゆく。そのほか、行政その他が行う集会の会場としても期待されるようになる。

ここで、岡崎市民会館の開館当時の様子をご覧いただきたい。岡崎市民会館は昭和42年(1967年)に完成した建物である。戦後、1950年代後半に全国の文化ホール型公会堂の建設が始まって10年ほどのタイミングである。費用は4億円の予算で延床面積5589㎡、客席数は2000席であった。6月22日に落成式を行い、壷泉会の能楽「猩々乱」、舞踊は松栄芸妓連の長うた「翁、千歳、三番叟」、東芸妓連の常磐津「釣り女」、竜城芸妓連の長うた「君が代、松竹梅」が演じられたと記録されている。また、6月23日、24日に市民芸能祭が行われ、舞踊、民謡、長唄、尺八、琴、義太夫、びわ、歌舞伎(岡崎歌舞伎同好会等)、謡曲、洋舞、吹奏楽、合唱、小中学校音楽部などの関連団体の発表会が大々的に行われている。岡崎は現在でも伝統芸能のお稽古の盛んな地域であるが、当時の盛況ぶりは目を見張るものがある。開館後はテレビ局の利用が多い。東海テレビ公開録画「クイズで歌おう」、名古屋
テレビ公開録画、東海テレビ「世界コミックカーニバル」などが記録されている。また、興行については、公設市場主催「歌の祭典」(日野てる子、山本リンダ)、有料商店会主催「水前寺清子ショー」などが開催されているのも特筆に値する。地域商店街などがそのPRのために興行の主催者になり地域を盛り上げていたことが分かる。そのほかには労音の演奏会や地域の社中の舞踊大会なども記録に残っている。つまり、当時は和物、洋物の幅広のジャンルの稽古ごと発表会に加えて、商店街などの地域主体で、あるいは地方放送局主催の興行が行われていた。今では、東京、名古屋、大阪などの大都市を除き、どの地方都市においても、放送局が主催する興行は姿を消して、行政の計画する自主事業へ情報とネットワークを提供するような形に変化していること、地域の商店街なども、興行をプロモートする体力を喪失していることを考えると感慨深い。じつは、この時代の文化ホールのもう一つの大きな機能は結婚式の会場提供であった。岡崎市民会館も当初は結婚式場をもっており、多くの結婚式があげられた。ホール、集会場、結婚式場として、当時の中日新聞には3か月で20万人が施設を利用したとある。「岡崎市民会館が完成したのは6月末。それまで総会的な集会場のなかった同市に、2千人収容の大ホール、5つの集会場、結婚式場など、東海一の規模を持つ会館が誕生した。以来9月末までの利用状況は、ホール七十六回、集会室四百十六回、結婚式場十四回と延べにして20万人以上。岡崎市民が一度は利用したことになる。とくに目立つのは、一流芸能人によるショー、音楽団体の例会、市や西三河地区の大きな会議などで、ほとんど連日利用。商店街の売り出しにも「ショー招待」が利用され、いまや同会館は市民の生活の中心になっている。」また、1年後の中日新聞の記事には大ホールは23万人が利用し、「おもな用途は①音楽グループ例会、歌謡ショーなど78回、②漫才などの演芸会30回、③組合大会などの各種の集会26回、④演劇22回、⑤邦楽、舞踊など13回。娯楽が中心だが、これまで大きなホールがなくてできなかった大集会にもたびたび使われている。」と示され、結婚式にも人気で422組が結婚式をあげたと記録されている。ただ、大ホールの運営については、東海新聞1に、議会質問として市民会館の利用料金が高いことが次のように指摘されている。「議会(11日)での質疑 日曜祝祭日にホールを借りると十万円(有料入場)もかかっては勤労者団体は使えない。市長答弁:全国十六都市の平均をとったもので(中略)いちがいに高いとは言えない。」しかし、同時に、東海新聞2に「使用料はホールが877万6千円、集会室245万7千円、結婚式場175万1千円、合計1298万5千円の収入。華やかなようで財政は苦しく、冷暖房などの電気料が一か月50万円、清掃費十万円、それに人件費をさし引くと維持費をまかなうのがせいいっぱい、というのが、実情のようだ。」とも報じている。行政側から見ると、市民会館の運営は財政上の負担が大きく、他方で、市民の側からは利用料金が高いという批判があるという状況は、今日と同じであると思われる。ちなみに、岡崎市民会館は2016年に大改修を行い、オーケストラピットを廃止し、舞台を拡充する代わりに客席数を1100席に縮小することでゆったりした客席を確保し新しいニーズに対応するように再整備が行われた。

話題を元に戻そう。岡崎市民会館ができる前に京都で京都会館(1960年)、東京で東京文化会館(1961年)が前川國男設計で建設されている。特に東京文化会館は、舞台機構などは大きく改良し、また、大きなリハーサル室などを地下に追加するなどの改良は加えられているものの、舞台の広がり、客席の骨格などは現在でも当時のままであり、今でもオペラはクラシックコンサートに最良の劇場として親しまれていることは特筆に値する。京都会館はその再生において、前川建築をそのまま残すべきという意見もあり、有名建築物の改修の在り方に多くの関心を集めたが、香山壽夫の設計により、前川建築のエッセンスを残しながらも、大ホールは舞台客席含めてほぼ新しい空間になり、現代の舞台芸術の要求を十二分に満足する形に生まれ変わっている。同じ設計者の建築であっても、その後のニーズにどのように対応するか、この二つの建築は全く正反対の手法をとったが、いずれも素晴らしい形で蘇っている。

次に60年代の日本の劇場建築において、その後の技術に大きく影響を与えたのは、国立劇場である。国立劇場(1966年)3は、1963年に行われた設計競技により岩本博行(竹中工務店)他13名の案が採用された。外観は校倉造をモチーフにした端正な作りになっている。「古典芸能の正しい保存と新しい芸能の創造発展」のためにつくられた劇場であり、できた当初は歌舞伎、日本舞踊、人形浄瑠璃を中心に上演する劇場空間として設計された。しかし、興味深いのは、その舞台機構の構成である。大劇場においては、歌舞伎を中心に上演する目的であったが、大きな回り舞台を設置し、その周りにルント・ホリゾントを配するヨーロッパの劇場の舞台設備を大きく取り込んでいる。単に伝統的な歌舞伎劇場を再生するという以上に、西洋の現代劇場の舞台設備を積極的に導入したいという強い意欲が、当時設計にかかわった舞台技術者にあった。すなわち、1960年代は東京文化会館、そして、国立劇場の建設を通して、我が国の舞台設備が大きな躍進をしたことを述べておかなければならない。ただし、国立劇場の建設に先立って、計画段階では、クラシック音楽のためのコンサートホールや、オペラ・バレエ劇場の設置も含めた総合舞台芸術施設としての在り方も検討されたのであるが、最終的には伝統芸能の劇場単独での実現となったことも期しておかなければならない。そして、その時の国会において、現代舞台芸術の国立施設は、のちに計画するという付帯決議がなされたことが、新国立劇場の建設につながるのである。そうした背景が、伝統芸能のための国立劇場であっても、当時かかわった舞台技術者たちに、当時のヨーロッパの最先端舞台技術へまなざしをむけさせていたのであろう。

  1. 東海新聞、昭和42年12月13日
  2. 東海新聞、昭和43年6月22日
  3. 国立劇場、官庁営繕、http://www.mlit.go.jp/gobuild/gobuild_fr6_000034.html、accessed 2020.4
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