芸術監督の部屋:公立文化施設物語

1-3 戦前における海外の劇場建築と技術

築地小劇場や東京宝塚劇場に見るように、当時の劇場建築は、世界の劇場建築の最前線と肩を並べようとしていた。それでは、当時の海外、特にヨーロッパの劇場建築はどのようなところにいたのであろうか。特に当時最前線を走っていたドイツ系の劇場建築の展開を中心に見ておこう。

19世紀から20世紀にかけて、芸術分野に様々な運動が起こり、芸術創造へのアプローチが激変を続けた。舞台芸術においても同様の変化が起こった。19世紀前半のヨーロッパの舞台芸術は、演劇にしてもオペラにしても、大げさな身振りをともなったスターシステムが全盛を極めていた。しかし、若い創造者たちはそうした演出・演技の不自然さから離れて写実的な表現を求めるようになる。フランスの俳優、演出家のアンドレ・アントワーヌ(1858-1943)はその先駆けである。彼は、自ら旗揚げした自由劇場(1887年)において、エミール・ゾラ、イプセンなどの作品を通して、わざとらしい演技を排した演出を行い、新しい演劇の方向を指し示した。リアリズム演劇はモスクワ芸術座(1897年)でコンスタンチン・スタニラフスキーによって、その演技と演出が確立される。芝居の中で俳優はその生活を自ら生きるようにふるまうことを求められた。こうした自然のような舞台を生み出す演出は、舞台のしつらえ(舞台装置)の在り方にも変化をもたらす。19世紀に主流であった舞台装置は、平面的な「絵画」であった。様々な舞台に対応するため、舞台装置は素早く転換をしなければならない。実は、ルネッサンス以前は、舞台装置は一つ一つの演目にそれぞれ個別に対応するものではなかった。風刺劇、喜劇、悲劇など舞台のジャンルに対応してそれぞれ普遍的な舞台空間が与えられていたのである。それが、ルネッサンス期からバロック期にかけて、透視画法が導入され、また、舞台上のからくりが多く考案されることで、カテゴリーごとの舞台装置から、演目ごとの舞台装置に変化をしてゆく。そして、透視画法をもちいることで、平面の幕や板に絵を描きつつも、それを透視画法という特殊な画法を用いて舞台の上に配置することで、立体的な空間を出現させる技術が完成されるのである。なぜ、平面上のものに絵を描いて立体的に見せようとしたか。それは平面上の幕や板は舞台転換を素早くすることができたからである。板状のものであれば、それを舞台上部にさっと吊り上げたり、横にスライドさせたりすることで、アッという間に舞台の絵画を転換することができた。当時の舞台は、ろうそくやオイルランプなどで照らしていたため、大変薄暗く、平面的な絵画でもそれを透視画法で書くことで、ほとんど立体のように見えたのである。そして、この技術は19世紀まで長く用いられてきた。

しかし、写実主義が台頭すると、舞台のしつらえはできるだけ本物を必要とするようになる。家具などは本物を用意し、また、時には舞台に登場する動物なども本物を出すようになる。そうすると、その背景を構築する絵画は演出の要求を満足しなくなってくるのである。そこで、登場するのが、立体的な舞台空間への要求である。

立体的な舞台空間への要求を論じる前に、オペラの作曲家、演出家のリヒアルト・ワーグナー(1813-1883)と建築家ゴットフリード・ゼンパー(1803-1879)の劇場改革について述べておく必要がある。それは19世紀の社会運動とも大きな関連がある。ワーグナーやゼンパーは自由主義的改革運動に端を発する革新的な社会を目指して3月革命に参加するほどの情熱家であった。特に、ワーグナーは貴族社会の象徴のようなオペラハウスの在り方に疑問を持っていた。貴族社会の観客は、上演されている演目に集中することもなく、一種の社交場として劇場を楽しんでいた。自らの身を削るような創造行為を本当に尊重してくれるような観客を彼は望んだ。そして、亡命でベルリンを追われたのちにたどり着いたミュンヘンにおいて、ワーグナーの世界観をまさに生きようとするルードビッヒ2世の庇護のもとで多くの革新的オペラ作品(楽劇)を完成させる。そして、建築家ゼンパーとともに理想的な劇場の設計を生み出そうとした。それが、残念ながら、ルードビッヒ2世の不幸な死や財政破綻などで実現をしなかったミュンヘン祝祭劇場である。この劇場で、二人はこれまでの劇場にない大改革を行った。一つは、バルコニー席の廃止と同心円の扇型にひろがるスロープの深い観客席である。ワーグナーは自らの芸術を尊重しない貴族たちを嫌ったが、かれらが陣取るバルコニー席(桟敷席)を全面的に廃止した。そして、その代わりに、ギリシア・ローマ劇場のような扇形ですり鉢状の観客席を生み出した。この観客席はすべての席が舞台の中心にまなざしが来るように配置されている。自分が全霊を込めて作る作品をしっかりと見てほしいという彼の心がそこに現れている。

そして、さらに、ワーグナーはオーケストラピットにも大改革を行った。彼はオーケストラピットを深く舞台の下まで潜り込ませ、観客とオーケストラピットの間には深い覆いをかぶせ、観客からピットの明かりが全く見えないような作りとした。彼はそれを神秘の淵と呼んでいる。 彼の創り出す楽劇はすべてのストーリーや登場人物の心情が音に表現されており、音楽がすべてを導いてゆく。だから、それを妨げるようなオーケストラピットの演奏や指揮などは見せてはならないものであった。もう一つ彼は大きな改革をする。舞台と客席の間の仕切るプロセニアムアーチを二重にしたのである。舞台側のプロセニアムアーチは小さく、客席のプロセニアムアーチは大きく作ることで、視覚上、舞台の演出が大きく見えるような配慮をしたのである。

残念ながら、ミュンヘン祝祭劇場は設計が完了したものの、反対などに直面し実現しなかった。しかし、そのコンセプトは、1876年にバイロイト祝祭劇場で完成している。バイロイト祝祭劇場は現在でもワーグナー楽劇のメッカであるが、ここでワーグナーは自らの楽劇を完成させたのである。ただ、舞台空間の作り方については、ワーグナーは古い絵画的な枠組みから抜け出ることはできず、真の舞台空間の改革は、アドフル・アッピアの出現や孫のヴィーラント・ワーグナーの芸術監督就任まで待たねばならなかった。

リヒャルト・ワーグナーのオペラ改革は音楽の部分を中心に進められたが、舞台空間のしつらえ(舞台美術)については基本的にこれまでの絵画表現が踏襲された。このことに異を唱えたのが、スイス人舞台演出家(舞台美術家)のアドフル・アッピア(1862-1928)である。かれはリトミックで有名な音楽教育家で舞踊家のエミール・ジャック・ダルクローズ(1865-1950)と出会うことによって、「リズムを劇場空間に還元する方法」1を研究した。そして、立体的な舞台空間の照明の表現性2を求め、音を軸に表現されるワーグナーの楽劇には人間の可塑的肉体を引き立てる光と影が作り出す立体的な舞台空間が必要であると考えた。その考え方は、1912年から1913年、ドレスデン近郊ヘレラウのダルクローズ研究所におけるフェスティバルにて実現する。立方体の箱を布で包み込み、その裏側から均質な照明を行うことでぼんやりとした立体的な空間を作り、その中に抽象化された階段による舞台装置をおいて光と影を与え、彫塑的身体と融合させた。

光を演出空間の基軸に据えようとする動きは同時代的に進行する。ファッションデザイナーでもあり照明家でもあるマリア-ノ・フォーチュニー(1871-1949)は照明を背後にひそませて無限の空間がそこにあるように光る半円形ドーム(フォーチュニー・サイクルラマ・ドーム)を考案し、1901年特許を取得し、舞台空間を覆うように配置した。いわゆるクッペル・ホリゾントの登場である。アッピアはこの装置の実験に立ち会っている。イギリスのゴードン・クレイグ(1872-1966)も抽象的な光の空間を舞台上に構築することを同時代的に主張している。

立体的な舞台装置を中心に舞台空間をしつらえようとすると、従来のように平面上の絵画で舞台の側面と上部を見切る方法は使うことができない。それに代わる舞台を囲む仕組みが必要になる。フォーチュニーも、ダルクローズも薄明るく光る幕を舞台の周辺に設置することで、無限の広がりがそこにあるように見せようとした。その試みを一般化していったのがホリゾント(英語でサイクロラマ)と呼ばれる幕である。フォーチュニーは4分球のドームを使った。それはクッペル・ホリゾントと呼ばれている。しかし、それは道具の出し入れが難しい。次第に、立体的なまがりを少なくして舞台奥に立つようになる。その形が、大隈講堂や名古屋市公会堂、築地小劇場に導入された。しかし、ドイツでは、立体的な舞台空間の創出が強く求められたため、コの字型に舞台を大きく囲う形式が一般的になった。これは大きな舞台を囲むように設定されるため、高さが10m以上もあり、長さは40m以上もある長大な幕である。道具を運び込むにはこれを一時的に撤去しなくてはならない。しかし、簡単には撤去できない。そこで、それを縦に吊るしたまま巻き取る方法が考案された。それが戦後ドイツの多くの劇場で採用されたルント・ホリゾントである。

さて、話を元に戻そう。リヒャルト・ワーグナーの妻、コジマ・ワーグナーはバイロイトでの活動を引き継いだが、アッピア等の改革には理解を示さなかった。バイロイトでアッピアの考え方が本格的に採用されたのは、孫のヴィーラント・ワーグナーになってからである。彼は、戦後1951年に再開された音楽祭において、「パルシファル」の演出で、写実的な表現を完全に放棄した画期的な舞台空間を創り出しセンセーショナルを巻き起こした。

19世紀後半に始まる舞台芸術の改革は、劇場空間や劇場技術の変化を促した。先に述べたクッペル・ホリゾントの登場と並ぶ、象徴的な舞台機構変革は、回り舞台の登場である。回り舞台は、日本では歌舞伎劇場で古くから使われていたが、ヨーロッパでは、カール・ラウテンシュレーガーがミュンヘンの宮廷劇場において1896年に「ドンジョバンニ」の演出において直径16mの回り舞台を採用した。

立体的になってゆく舞台装置は、幕や板に書いた書割のような素早い転換は難しい。特にオペラは大型の舞台装置を多用しなければならない。そうした立体的な舞台装置の転換には、迫りと呼ばれるエレベーターや横移動するスライディング・ステージが使われる。20世紀の初頭になると、こうした機械仕掛けが劇場にどんどん採用されてゆく。特にドイツでは、オペラを中心に、例えば屋外の場面、華やかな宮殿の広間の場面、高い天井と太い柱の教会の内部などを素早く転換するために、一幕ごとにセットを大きな台座の上にのせて、丸ごと舞台袖に引き込み、または引き出すような仕掛けが工夫されてゆく。そのシステムはすでに1930年代には完成をしている。1938年に完成したAnhaltisches Theater Dessau(アンハルト州立劇場デッサウ)は主舞台の左右、背後に大きな副舞台をもつ、いわゆる4面舞台の原型を完成させていた。

このように、ドイツでは、日本では今日、新国立劇場の舞台に代表される4面舞台をすでに戦前に完成させていた。だからこそ、第2次世界大戦で都市が破壊的ダメージを受けたのち、すぐにケルンやベルリンなど各地で近代的な舞台機構を備えた劇場がどんどん建設され、戦後の世界の劇場技術をけん引する役目を果たすことになった。

  1. 永井聡子、清水裕之、「アドフル・アッピアの演出理念における舞台と客席の関係性 20世紀初頭における劇空間に関する研究 その1」、日本建築学会計画系論文集、第487号、pp79-86、1996
  2. 同上
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