芸術監督の部屋:公立文化施設物語

1-2 戦前の劇場の近代化

公会堂建築とはもともとジャンルが異なるが、近接した建築類型としての劇場建築の流れても押さえておく必要がある。

日本の近世の劇場建築といえば、その中心は歌舞伎劇場である。劇場は当時風紀を乱す悪所として扱われ、幕府の統制が厳しかった。江戸時代の官許(幕府によって許可された劇場)の歌舞伎劇場は中村座・市村座・森田座・山村座の4座である。のちに山村座は取り潰しになっている。ただ、それぞれの座には経営が苦しくなったりしたときの代わりの劇場として控櫓が生まれている。また江戸時代の歌舞伎劇場は頻繁に火災に遭遇し、建て替えや場所の移転が激しかった。最終的に、天保12年(1841年)中村座、市村座などが火災で焼失したことをきっかけに、劇場を猿若町に集中移転させた。明治になり、東京府(当時)は10座を許容したが、そうした劇場変革の中で、江戸三座のうちの森田座が都心に近い新富町に移転した。この新富座が日本の近代劇場の生まれるきっかけを作ったと言われている。すなわち、当時、明治政府は西洋の劇場が都市の重要な場所に作られ、貴賓の接待の場所として使われるのを見て、日本の劇場も、そのような役割を担うべきだという考え方が生まれた。もっとも、こうした考え方は、芝居そのものの要求から生まれたものではなかったため、芝居を好む通人の考えとは言えず、むしろ、政治家や財界人など、芝居の外側にいる人々からの期待であった。ただ、芝居人たちも次第にこうした世の中の風潮に反応するようになる。例えば、新富町の森田座は、焼失を契機に1878年、ガス灯などを導入し歌舞伎劇場の近代化を目指し、外国人の客のために椅子席を設けたと言われている。

演劇改良運動はこうした機運の中で生まれている。九代目市川團十郎は荒唐無稽な歌舞伎の筋書きを西洋演劇のように世界にも通用するようなものにしようとした。末松謙澄、渋沢栄一らの政治家、経済界、文化人があつまって演劇改良会が立ち上げられた。そして、改良会員であった福地桜痴が音頭を取り、演劇改良運動の流れを汲んだ歌舞伎座(1889)を建設する。歌舞伎座はいわゆる戯洋風の建築であり、平面類型は古い歌舞伎劇場を踏襲していたが、外観は西洋建築の風を纏い、観客席の上部にはシャンデリアがかけられた。演劇改良運動は、理屈から生まれたものであって、芝居好きの思いとは相いれないところがあったり、興行的にもうまくゆかなかったりで、短命で消滅する。しかし、劇場の洋風化は、経済界などの社会からの要請として徐々に進行し、1911年の帝国劇場開場1へとつながる。帝国劇場は横川民輔の設計である。彼は、設計に際して、海外の劇場の視察に出かけている。建物は、19世紀後半の西洋劇場を丁寧に模している。

帝国劇場は技芸学校が併設され多くの女優を育てたことでも有名である。また、旧来の歌舞伎劇場の茶屋制度や下足番などを廃止し、チケット制度を導入するなど、劇場ソフトの近代化を進めたことも特筆しなければならない。日本における近代の劇場経営システムの登場である。さらに、イタリア人ローシを招いてオペラ、バレエの上演を行った。すなわち、単にハードのみならず、ヒューマンウエアの部分でも西洋の劇場の仕組みをそのまま導入しようとしていることは注目に値する。しかし、開幕直前まで、西洋式の舞台芸術を中心に運営しようとしながら、西洋式の舞台芸術では客を確保できないということで、開幕直前に六代目尾上梅幸、七代目松本幸四郎などを専属俳優として迎え、歌舞伎を演ずるという折衷を受け入れてしまった。このことは、劇場空間としては、歌舞伎に適しない高いプロセニアムアーチや短い花道など、多くの矛盾を生むことになり、将来まで続く、和洋折衷の多目的ホールの課題を生み出してしまった。

帝国劇場は株式会社の形態で生まれたが、その伏線には国立劇場建設の動きがあった。例えば、明治40年には2斎藤信策が「芸術と人生」に「国立劇場と紀念像とを建設せよ」という論を展開している。しかし、その動きは、中心にいた伊藤博文が暗殺されるなどで頓挫し、結果的に財界人主導の帝国劇場が株式会社の形態で誕生したのである。しかし、その経営陣は炭坑や鉄道の経営に携わった人物であり、当時の芸能界に深く入り込んでいなかったことが幸いし、近代的な劇場経営が誕生することになった。

当時の歌舞伎劇場は、客はチケット購入ではなく、お茶屋さんを通して劇場に足を運ぶ形式であり、飲食とセットでサービスが行われていた。また、下足番などチップで生活をする人たちもいた。劇場経営はそうしたシステムを包括するものであり、運命共同体としての内部をよく知っているほど劇場経営の改革は難しかったであろう。

戦前の劇場建築として、どうしても述べておかなくてはならないのは築地小劇場(1924年)である。土方与志と小山内薫の二人の演劇人によって建設された私設劇場である。土方は貴族の生まれで、ちょうどドイツに留学中であったが、関東大震災のニュースを聞き、急遽帰国し、小山内薫に声をかけ計画に誘い、留学資金を劇場建設に提供した。小山内薫はロシア演劇に造詣が深く、土方は20世紀に入り演劇の中心地になっていたドイツから帰国したばかりの演劇人であり、彼らは単に建築物としての劇場ではなく、演劇創造のシステムとしての近代劇場機構を日本に創り上げた。例えば舞台監督などの制度は築地から生まれている。当時は舞台照明などの技術は国内産業としては成立していなかったため、ドイツの製品を日本に移設した。また、先に大隈講堂で述べたように当時最先端の舞台照明技術として理解されていたルント・ホリゾントの設置を行っている。また、写実主義から表現主義、構成主義へ、目まぐるしく世界の舞台表現の思想が変わる中、築地小劇場では、小山内薫、土方与志、村山智義など、世代を異にする演出家が参加しているためか、舞台装置や演出の方法が異なるためか、舞台空間の作り方に多様性を持たせるような前舞台領域のフレキシビリティをもっていたことも特筆すべきである。

戦前の劇場建築を大きく推し進めた劇場としては、東京宝塚劇場も上げておかなければならない。実業家小林一三は有馬箕面電気軌道(現代の阪急電鉄の前身、1907年開設)の創設者である。彼は鉄道開発において、観客輸送が偏ることを避けるため、都心側と反対方向に遊興地(温泉、動物園)を設け、昼間の客移動の均衡化を図った。そして、温泉と同時に劇場を建設し宝塚少女歌劇団(宝塚歌唱隊、1913年)を設置した。そして、少女歌劇団は東京に進出し、東京宝塚劇場(1934年)を建設した。この劇場の特徴は、オーディトリアムと舞台の空間構成が劇場技術の立場から見て、その後の日本の劇場建築のモデルになった。天井のシーリングスポット室、側壁のフロントサイド投光室などのレイアウトは現在の日本の劇場空間の基本レイアウトになっている。また、同時に日本の劇場技術を産業として確立させる契機ともなった。それは、この劇場を電鉄会社が作ったということと深い関係がある。小林は、新劇場を作るにあたり、電気技術者であった井上正雄をアメリカ、イギリス、フランス、ドイツと巡らせて、技術者の立場から劇場の調査をさせた。現代では、産業スパイとも呼ばれてしまうかもしれないが、彼は、各国の劇場で最新の舞台技術を見聞し、技術者らしい知識を駆使し、詳細なスケッチを残している。そして、その成果に基づき、日本で初めて独自の舞台技術設備の体系を構築した。特に照明設備においては、日本の技術者
が開発途中にあった多分岐調光変圧器装置3を採用して、産業化を先導している。舞台機構についても同様である。そして、この劇場の設置をとおして、舞台照明家の遠山静雄などの日本舞台技術界の大御所が育っている。

つまり、戦前の劇場建築としてみたとき、帝国劇場は、都市の顔としての新しい劇場文化を作り、築地小劇場は、創造者側からみた演劇制作システムの体系を整備し、東京宝塚劇場は、日本の近代劇場技術の産業化を推し進めた点にとくに大きな業績があると言える。

  1. 嶺隆、帝国劇場開幕―「今日は帝劇 明日は三越」、中公新書、1996
  2. 斎藤信策、「芸術と人生」、国立劇場デジタルコレクション、https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/871631/147
  3. 多分岐調光変圧器装置、http://marumo.co.jp/column/?p=1010
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