芸術監督の部屋:公立文化施設物語

1-1 公立文化施設の前身は公会堂建築

市民会館、文化センターなどと呼ばれている、ホールを中心に構成される公立文化施設1は、公会堂をその前身としている。公会堂は明治大正期から各地に設置されてきたが、戦後、国家の文化統制が解かれ、復興が進むと同時に、文化活動が各地で活発化すると、受け皿として舞台芸術の上演を意識する新しい形の公会堂の建設が盛んにおこなわれるようになった。文化活動の受け皿としての特徴を色濃くした公会堂建築の代表例は、米子公会堂(1958年、設計村野藤吾)、文京公会堂(1959年、設計佐藤武夫)などである。また、それに先駆けて、公会堂という名前を冠しない公立の専用ホール建築として、1954年に神奈川県立音楽堂(設計前川国男)が完成している。これらの事例は、すでに、クラシックコンサート時などの音響特性の向上を意図した建築音響設計技術を活用している。つまり、この時期の公会堂建築はすでに音楽や演劇などの舞台芸術施設を大きな用途として考える「文化ホール」を中心に構成されるようになっていたのである。これらを「文化ホール型公会堂」と呼ぶこととしたい。

さて、それでは、文化ホール型公会堂は、いつの時代に生まれたのだろうか。一般的に、その嚆矢は「日比谷公会堂」とされている。日比谷公会堂(東京市政会館)で音響工学の導入によるオーディトリアム形態のパラダイムシフトが起こったことは多くの研究で明らかになっている。2345日比谷公会堂(1929年)の設計は早稲田大学建築学科の教授であった佐藤功一である。この設計は指名懸賞競技(1911年)を通して選ばれたが、その当選案では、一階席は水平な床を持つ平土間方式で舞台も講演などを主目的とした小さなものであった。しかし、実施案では、コンサートなどの舞台芸術のための音響効果を配慮した釣り鐘型の断面形を持つオーディトリアム(観客席)に切り替わっている。これは設計に加わり、のちに日本のホール建築をけん引した建築家(のちの早稲田大学教授)佐藤武夫の力が大きかったとされている。

当時、すでに海外では、1900年に有名なボストンシンフォニーホールが建設されていた。これは近代音響理論の勝利と言われた建築であり、ハーバード大学助教授のウォーレス・クレメント・セイビンが確立した残響理論に則って設計されたものである。日比谷音楽堂は、このような世界の動きに呼応して、日本にも近代音響理論を構築しようとしていた佐藤武夫が積極的に音響理論を応用して計画を行ったと言われている。ただし、日比谷公会堂にて、突然「文化ホール」としての機能が付加されたわけではない。そこにはいくつかの伏線が絡んでいる。ホール建築への音響理論の適用はすでに早稲田大学の大隈記念大講堂(1927年)にて行われている。

日比谷公会堂以前の公会堂建築はどのようなものであったのであろうか。現在確認できるもっとも古い公会堂は日本橋公会堂(明治24年、1891年)6とされている。猪野明洋、田邊健雄7によると、明治期の公会堂は倶楽部的公会堂であったという。「公会堂」という言葉は明治2年の村田文夫による「西洋見聞録」に議会の空間として描かれている。8そして、彼らによると明治期の公会堂は「公の会合や議会のために議場」を意味していたとする。

1910年竣工の福岡県公会堂では同一敷地内に集会場、貴賓館、西洋料理店、門衛所が設置されていた。貴賓館は貴賓の宿泊所として作られたようである。また、音楽会の利用もうかがえるとする。猪野明洋、田邊健雄は明治期の公会堂を「演説、集会、討論」の場にくわえて、「迎賓、式典、宿泊」と「演奏会」に利用されたとしている。ただし、まだ一般大衆のものとしてではなく、上流社会の社会的交流のために利用されており、その意味で「倶楽部的公会堂」であった。しかし、明治から大正期にかけて、こうした倶楽部的公会堂が全国各地に建設されていることは注目に値する。上流階級の利用とはいえ、それぞれの地域に文化的市民集団の萌芽があったとみることができるだろう。現存するその一つの形が現在、岡崎市内にある旧額田郡公会堂(1913年)である。額田郡公会堂には大広間が用意されていたが、その一角に持ち上げることができる小さな舞台が用意されていた。

その次の公会堂建築の時代を象徴する建物が大阪市中央公会堂(1918)である。この建物によって公会堂の大型化910が推進された。大阪市中央公会堂は相場師岩本栄之助の公会堂建設費100万円の寄付をきっかけとして計画されたものである。岩本はアメリカの富豪たちの慈善事業としての寄付に関心をもってこの寄付行動を起こしたとされる。設計は建築設計競技で行われ、岡田信一郎が当選した。施設内容は大集会場のほかに、小さな集会室を複数備えたものである。猪野明洋、田邊健雄は「オーディトリアム空間の名称は“廣堂”と記され、1階に約3,000人を収容し、階段席を設置しないことがはじめから指示されている。用途は、奏楽、演説、大集会とされ、演劇の利用は記されていない。又、2階の別の廣堂(約500人収容)で会食が行われるようになっている。」と述べている。11これらの点では、大阪市中央公会堂は、東京市政会館に比べて、設計意図として、芸術文化的催事よりはむしろ集会機能を重視する一つ古いタイプの公会堂建築であったと言える。ただし、その収容人数が3000人を目標としていたように、明治期の倶楽部的公会堂としての性格から、大衆社会における大型集会のための機能へと大きく変化を見せている。

上記のように、音楽や演劇などの舞台芸術を上演するという機能を公会堂に付加し始めたのは、どうやら建築主ではなく、設計者の方ではなかったか。佐藤武夫が著書、「公会堂建築」において触れているように、日比谷公会堂の設計においては、「その性格設定の時、主として行事、講演会等に供するためで芝居とかオペラ等の上演についてはむしろ考えてはいけない、という態度が企画者側から示された」12と述懐している。そうした行政等の発注者の意向を考慮しつつも、その要求を越えて、建築音響設計など世界で進めれていた先端的劇場技術を建築技術者として積極的に推し進めようと考えたのであろう。

例えば、名古屋市公会堂(1927年、設計名古屋市設計課)や早稲田大学大隈記念大講堂(1930年)においては、当時西洋において、注目を集めていた舞台設備であるクッペル・ホリゾントの設置がおこなわれるなど、建築計画面からの舞台芸術施設化が少しずつ進行している。

こうした建築空間の質的変化により、大型化した公会堂建築は多目的ホールへの礎が築かれ、次第に、西洋舞台芸術の発表場所として活用されるようになる。猪野明洋、田邊健雄13によると、その当時のホールの利用状況を確認しつつ、「大正期の構造転換によって公会堂は、「一部の限られた人を対象とする施設」から「誰もが利用できる施設」へと変化し、その主な利用形態は、「演説、集会」「迎賓、宿泊」から「演劇、演奏会、映画上演」へと移り変わった。」と結論付けている。

  1. 一般的に、単独に公立文化施設と呼ぶ場合、ホールを中心に構成される公立文化施設のことを指す。
  2. 米山勇、東京市政調査会館及東京市公会堂の設計変更に関する考察、佐藤功一の「建築―都市」観に関する研究1、日本建築学会計画系論文集、第566号、pp147-152、2004.4
  3. 中山雅登、山野善郎、日比谷公会堂における佐藤武夫の音響設計、日本建築学会学術講演梗概集、pp.333-334、2001.9
  4. 米山勇、東京市政会館及東京市公会堂の設計変更をめぐって 明治末から昭和初期にかけての演劇運動と建築に関する考察・2、日本建築学会関東支部研究報告集、pp.441-444、1996
  5. 新藤浩伸、公会堂と民衆の近代、東京大学出版会
  6. 米山勇、同上
  7. 猪野明洋、田邊健雄、公会堂の発生と明治期におけるその倶楽部的性格 -近代日本オーディトリアム建築計画論 その1-、日本建築学会学術講演梗概集、pp.403-404、1995.8
  8. 同上
  9. 本杉省三、小根山仁志、小谷喬之助、逆瀬川和孝、大型公会堂への過程と役割、近代東京における演劇改良から公会堂誕生への変遷(その3)、日本建築学会学術講演梗概集、pp.401-402、1995.8
  10. 猪野明洋、田邊健雄、公会堂の構造転換 -近代日本オーディトリアム建築計画論(その2)-、日本建築学会関東支部研究報告集、pp.197-200、1995
  11. 同上
  12. 佐藤武夫、公会堂建築、相模書房、p.26
  13. 猪野明洋、田邊健雄、公会堂の構造転換 -近代日本オーディトリアム建築計画論(その3)-、日本建築学会中国支部研究報告集、pp.449-452、1997
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