芸術監督の部屋 第3部:プログラム提供型機関を作る

3-2 誰もが創造的かつオープンに企画や運営に参画できる、そんな活動を支える参加型アクションを紡ぎだす「開かれた」公立文化施設

プロフェッショナル・リージョナルシアター、コミュニティシアター、アートセンター、いずれの方向性を志向しようとも、公立文化施設のこれからの在り方は、アートと地域とのかかわりを常に考えなければならない。すなわち、「アートをとおして、地域のあらゆる人々が潜在的に持つ感受性を喚起し、また、創造力やコミュニケーション力を涵養することを通して、生きるための活力を地域にみなぎらせるようにすること」が大切である。どんな形のプログラムでも良い。肝心なのは、公立文化施設が、アートの持つ独特の力を使って、だれもがクリエイティブ(創造的)になるように力を引き出す仕組みを、地域の人々とともに、わかりやすい形で作り上げることである。このような方向性を目指すならば、すべての企画を施設側の専門職員が計画し、その成果を市民に提供するという運営方法は好ましいだろうか。筆者は、いくら素晴らしい活動が展開されるとしても、優れた成果を出すために、すべての企画を閉じた運営体制の中で行うことは好ましくないと考える。むしろ、できるだけ多様な市民参画を事業展開と組織作りの中に織り込み、苦労をしながらでも参加型アクションを紡ぎだす開かれた公立文化施設のかたちが期待されるのである。

筆者は、1990年代の参加型施設計画の推進において、「コップの中の濁り水」のたとえを良く持ち出した。コップの中に砂や粘土が混じった濁り水があるとする。行政が考えがちなのは、何かトラブルが起こらないか、意見の衝突が起こらないかと心配して、その濁り水が沈殿して静かな状態になるように配慮された計画プロセスである。しかし、それでは、そのプロセスが完了した時には、感動も、前向きな意欲も残らない。沈静化志向の計画プロセスは、積極的にかかわろうとする感情、感動を押し殺してしまうからである。そうではなくて、むしろ、濁り水が常に濁り水であり続けるように、つまり、いつでも、前に向いた積極的な議論や行動が飛び出すように活性化された状態を保つような計画プロセスが必要になるのである。この考え方は、恒常的に創造的な公立文化施設の運営にこそ反映させるべきではないだろうか。それが「参加型アクションを紡ぎだす」ということである。職員はその紡ぎだしを引き出す役割を担うのである。

さて、それはどのような方法で構築できるか。もともと、人の活動は、あらゆるものが「創造的」になることができる。なぜならば、「創造的」であるということは、何も考えずに習慣的になってしまった一人一人の日常の行為を、新しいまなざしで見直す、すなわち、「異化」することをとおして、新しい発見や新しい発想に出会い、いままでにない新しい心の動きや活動に展開することであると理解すると、どんな人間の行為にも当てはまるからである。その心の傾きを最も簡単で有効な形で促すことができるのが「アートの力」である。たとえば、優れたファシリテート能力を持つアーティストがダンスや演劇、音楽などのワークショップをとおして、参加者の心や体を見事に開いてゆく様はいろいろなところで確認されている。すなわち、言い換えればあらゆる活動がアートの対象になり得るのである。必ずしも特別の演奏技術や演技術を持つ必要はない。必要なのは、「感性」を刺激し、「創造」する喜びに出会うことであり、これからの公立文化施設はそうした出会いの場を限りなくたくさん創出することが一番大事な役割になると考える。そう考えると、新しい公立文化施設の形が見えてくる。そこで展開されるプログラムは、完成形のものを市民に提供するのではなく、むしろ、プログラム作りそのものから積極的に市民の参画を求め、彼らの多様なアイデアを、ファシリテーターやプログラム・コーディネーターが専門的な知識、経験を使って市民と一緒に具体化してゆくような形である。日ごろからアイデアや意欲がある市民が集い、提案をし合い、その中からいい企画を選択し、作り上げるような仕組みを事業運営計画の中にどのように取り込んでゆくのか、そのプロセスを業務としてどのように職員が展開してゆくのか、それを考えることがこれからのインスティテュート型公立文化施設には必要不可欠である。

こうした考え方に立つと、貸館型運営は、市民の創造力を喚起するようなプログラムを積極的に展開できない、あるいはしない最も消極的な体制であるという理由から、「多様な出会いを創出する」という観点からは改めてなくてはならない運営方式であることがより鮮明になる。トラブルを未然に防ぐために利用者相互の干渉を極力避けようとする貸館管理運営ではなく、積極的に今まで思いもつかなかったような利用者相互のかかわりを紡ぎだしてゆく新しい運営方法が必要になるのである。

お金をかけて市民に提供しやすい価格で劇団や楽団を招聘し、安い料金で市民に提供することも、鑑賞機会を提供して市民が非日常の舞台に触れることで、いろいろな気づきが生まれ、その気づきを通して日常生活に新たな力を喚起するということは創造的ではある。しかし、鑑賞型プログラムへの参加者は、高学歴や生活に余裕がある人であるという、これまでの文化経済学上の様々な研究成果や、ワークショップや参加型プログラムに比べると体験が受け身であることを鑑みると、それだけに頼るプログラムでは、今まで公立文化施設に来ることがなかった人々を巻き込んだり、積極的に創造力の喚起をしたりする意味を考えると不足であると言えよう。

これからの公立文化施設においては、幼児から高齢者まで多様な年齢層の方々、障害のある方もない方も、また不登校児のように社会的に疎外されているような環境にいる人も阻害されることなく来たいと思うようなバラエティに富んだ多様なプログラムを用意すべきなのだ。このようなプログラム作りには、限られた職員では限界がある。むしろ、プログラムの企画、提案から実施に至るまで、できるだけ多くの市民や市民グループの知恵や力を借りて一緒に作り上げることが重要なのではないだろうか。そして、これが、今求められてる社会包摂プログラムへの期待ではないだろうか。

何度も指摘するように、こうしたプログラムを創出し、提供するには、独特の専門的能力が必要となる。多様なプログラムを遂行する力のあるアーティストを見つけ、彼らとのネットワークを広げ、協力体制をつくること、そして彼らの協力を得て、多くの人々が興味を引く企画(プログラム)を立案し、多くの参加者を勧誘し、それを成功裏に導くプロデュース力、コーディネート力、ファシリテート力である。開かれた施設運営では、このような力を、単に施設の職員のみならず、そこに参画する市民や市民グループのスキルとしても成長、発展させてゆくことが必要になるのである。このような運営のプロセスは公立文化施設の職員としては手間暇かかり面倒なものである。しかし、職員は積極的に開かれた事業企画プロセスの中で骨の折れる中核的なファシリテーター役を務めることを最も重要な仕事として理解してゆかねばならないだろう。単に優れたプログラムを開発し、実現させるのみならず、市民とともに企画を育て事業の成功へと導くという能力こそ、創造的な活動を支えるこれからの公立文化施設の職員に期待される能力である。

これまでの貸館型や買取型の公立文化施設の職員には、こうした能力はあまり期待されてこなかった。したがって、現有の職員にすぐにこのような能力を獲得するように指示したり、促したりすることは難しいかもしれない。しかし、何とか、その心理的、技術的障壁を乗り越えてもらいたいものである。

現在でも、多くの公立文化施設では、貸館事業などを通して、地域で様々な文化芸術活動をしている団体や個人とのつながりができている。また、近年では、ホールボランティアなどの導入も進んでおり、公共ホールの企画や運営に少なからぬ興味を持っている方も身近にいると思われる。実は、これまでの公立文化施設では、「どんな人でも公平に接するべき」とする地方自治法の公平性の解釈が固着化し、公立文化施設に強い関心を示し、強く関係性をもとめるようなタイプの利用者を意識的に警戒する傾向があったように思う。確かに、ある種の利用者は、利用料金の減免、あるいは施設の優先利用などで、行政に圧力をかけたり、あるいは政治的にふるまったりする場合も見受けられる。こうした動きに対して、公立文化施設の職員は強い警戒心を抱くのである。これは良くわかる自己防衛の意識である。

残念ながら、現在の公立文化施設においては、「公共の福祉の増進」の目的のために「何人も利用を拒んではならない」とする地方地自法244条の規定を「公平性」への唯一の根拠と考え、「特定の個人や団体」と、特定の関係性をつくることに大変躊躇する。しかし、改めて、地域の様々な才能と積極的に協力をする開かれた関係づくりを主軸に据える新しい公立文化施設の考え方を地方自治法上の公の施設との整合性を見るとどうであろうか。見える地平は明らかに異なる。

公立文化施設が文化芸術活動を通して、地域サービスとして「創造的」なプログラムを提供することは、「住民の福祉を増進する目的」にまさにかなっている。そして、貸館は空間を提供することが事業であり、貸館利用に対する拒否や差別をしないことで、地方自治法上の規定と整合性を図るが、これからの主軸となるプログラム提供事業は、そのプログラムの受益である観客、あるいは参加者が、参加への拒否や差別を受けないように配慮することが地方自治法上の規定と整合する。実際、美術館・博物館の企画展・常設展は基本的にこの考え方であり、劇場・音楽堂等の事業と全く整合性が取れていると考えることができるだろう。そう考えると、現在の公立文化施設では、貸館利用を拒まないという公平性を基準に置いているようであるが、実は、そこから除外される、障害のある方や社会に拒否感を持っている方、アートへのアクセスを知らない方などに対するプログラムが十分に整っていないために、社会に対してより広い公平性を担保できていないと言えるのではないか。その点で地域があらゆることにおいて「創造的」であることを最終目標として、あらゆる地域の人々に対して公平性を積極的に展開しようとして、公立文化施設の運営に強い関心をもつ、多様で、積極的な人々を巻き込み、連携する新しい公立文化施設の理念は、より高く、深い公共性、公益性を有しているとは思われる。

このように考えると、公立文化施設の活動はさらに幅広の視界が見えてくる。それは、創造的人材の育成・活用、創造性をとおしたまちづくりへの視点や地球環境保全の視点である。一つの提案をしよう。1990年代中ごろから公立文化施設計画において、市民参加型計画が大きく進展した。例えば、可児市文化創造センター、武豊町民会館、知立市文化会館、長久手市文化の家などがその好例である。こうした計画は、敷地の選定、施設内容の決定から設計、施工をとおして、行政においては、都市計画課や建築課(あるいは建設課)等のハード部門が参加する。そして、計画段階では、市民とこうしたハード部門の関係が生まれ、新しいまちづくりに展開可能な仕組みの萌芽ができる。しかし、残念なことに、建物が完成すると、ハード系部門は撤収し、総務系部門(つまり文系の部門)が管理運営の統括を引き継ぐため、まちづくりへの視座が消失してしまう。これはとてももったいないことである。多くの自治体では、近年、地域活性化のための様々なまちづくりへの取り組みがまちづくり系部門で展開されていたり、また、環境系・都市計画系部門でもまちの景観を整える景観計画などが策定されていたりするが、そこに公立文化施設の参加型計画が結びついていない。このリンクをもっと強化できないだろうか。例えば、公立文化施設は様々なアーティストとのネットワークを持っている。例えばそのネットワークを利用して、地域の商店街と連携して、商店街のイベントにアーティストを紹介したり、自らの企画を持ち込んだりすると、街の活性化に大きな貢献をすることができる。岡崎市民会館では、あるスタッフの強い熱意により、喫茶店で落語の会をプロデュースすることができた。また、建築家もある種のアーティストであるが、地域の建築家、あるいはその団体を巻き込んだ、建築ワークショップなどを展開することも可能である。かつて、筆者も某地域の建築関連学会の支部の活動として、こども建築ワークショップとして、「3匹のこぶた」プログラムの計画に参加したことがある。有名な童話をもとにダンボールで家を作って遊ぶ試みであった。こうしたプログラムを行うことで、公立文化施設がまちづくりへどんどん関わってゆくことができる。

武豊町民会館では、地域の企業や技術者と公立文化施設を結ぶユニークな試みが行われている。ひとつはサイエンストークである。これは地域の企業と協力して、その企業のもつ面白い能力や話題を、子どもを中心とした地域の人々に提供してもらうワークショップで、地域の企業がこんな面白いことをしていたのだというような気付きが広がる契機になっている。また、同様に、地域の企業をリタイアした技術者のサポートを受けて小学生と技術遊びをする市民活動が展開されており、ゴム銃製作講座、天体望遠鏡製作、星空観察会などのプログラムが充実している。「創造力」を活動の中心に考えるとこんな楽しい活動も市民との協力で成り立たせることができるのである。

さきほど、「創造性」をキイワードにした新しい公立文化活動のスタッフには、プロデュース力、コーディネート力、ファシリテート力が必要だと指摘した。しかし、これまでの貸館中心の公立文化施設では、こうした力のあるスタッフはあまりいないのが実情だろう。ここで、再び武豊町民会館の事例の登場である。武豊町民会館は基本直営による運営であるが、業務の半分ぐらいを市民参加型の施設設計、建設プロジェクトで培われた市民ネットワークとして形成されたNPO法人が運営に参加している。そして、その活動を通して、様々なユニークな企画が展開されているのである。そして、そこに参加しているのは、多様な能力を持つ市民である。つまり、公立文化施設の運営を市民と連携することで、公立文化施設にとっては、実に多様な能力が手に入るのである。「創造力」がキイワードなので、何をやろうかということの自由度は高い。そこに参加してくれた人々の専門力と地域への思いが自由な提案を生み出すことができる。そうした自由さを公立文化施設がうまく育てるのであれば、その活動は大きな広がりを生むことになろう。何度でも指摘するが、これが参加型アクションを紡ぎだすということである。

地域の人々を公立文化施設の運営に巻き込む仕組みを整えるにはどうしたらいいか。先ほど、まちづくりの担当課との連携を挙げたが、まちづくり担当課の職員が定期的に、ホールの運営にかかわるような人事交流をしても良いかもしれない。また、地域の企業、商店街、商工会などと連携し、しばらく(1,2年)の間、公立文化施設の職員として出向してもらい、地域との連携プログラムを考えてもらうというのも難しいことではないのではないだろうか。「創造力」を喚起するプログラムを1,2年間で考えるということは、その職員の経験として、非常に貴重な経験になると思われるし、また、地域にとっても新しい出会いの場の企画が思いもよらぬ形で登場するきっかけにもなるのではないだろうか。

地域の様々な市民団体、芸術団体、芸術家と多様な連携をはかることも意味のあることであろう。そのためには、個別でわがままな「施設利用者」に対して、秩序ある社会サービスを展開するために、抽選や先着順などのルールをつくり「公平性」を守り抜く施設管理者というステレオタイプを一度根本から見直す必要がある。たしかに、わがままな利用者は存在する。彼らに対しては、やはり、ルールとしての「公平性」の順守をお願いし続けなければならないだろう。しかし、利用者には、別の形があることも理解しないといけない。それは、市民的公共性を意識することができる利用者である。市民的公共性とはユルゲン・ハーバーマスが定義した公共性の形である。公共性はドイツ語ではOeffentlichkeitと呼ばれてるが、それを直訳すると「開かれること」という意味になる。つまり、ハーバーマスが指摘する現代民主主義の基盤を作っている公共性概念は「開かれていること」、すなわち、公共圏の形成である。日本の公共性に関する用語としては、公益性と共益性という言葉が隣接する。共益性とは、クラブ活動、地域自治活動のようにある特定の団体が、その団体の構成者に等しくサービスを展開することである。これに対して、公益性とは、ある特定の団体が、自らの団体の構成員にたいして利益を導くのではなく、団体外の社会のためにサービスを展開することである。

実は、これまでの公立文化施設においては、この公益性をもつ団体や個人の活動に対して、深い意味を置いてこなかった。しかし、先ほどから述べているように、多様な「創造的」サービスを展開するには地域の多様な才能との連携が不可欠であり、その才能を持つ団体や個人が、活動を「開いて」くれるのであれば、積極的に連携をしてゆくことが求められるのである。地域の学校、NPOを始め、様々な団体や芸術家と、積極的な「開かれた」活動の関係性を作ることを考えてゆくべきであろう。

最後に公立文化施設を取り巻く公共性について言及しよう。筆者は「21世紀の地域劇場」において、パブリックシアターを「舞台芸術という芸術行為をとおして地域との関係を考える場」iであるとして、公立文化施設における公共圏の形成をその存在理由の根幹に据えた。公共圏とは、花田達朗がドイツ語の公共性が「開かれる」という意味を持ち、むしろ空間概念として理解すべきと指摘して創出した用語である。この考え方を援用すると、公立文化施設は舞台芸術を中心に公共圏を涵養する文化装置であると言える。本書では、その考え方を踏襲している。したがって、インスティテュートとしての公立文化施設は、様々な形で能動的に公共圏のアクティビティを創出することが大切であると考えている。そして、その公共圏の創出の様相によって、プロフェッショナル・リージョナルシアター、コミュニティシアター、あるいはアートセンターといった多様な形が生まれてくるのである。この辺りの詳細な考察は、「公共文化施設の公共性」iiに詳細に語られているので参照されたい。特に、近藤のぞみによる第一章「文化施設が『公共的役割』を果たすために何が必要か」iiiには、公共性の様相が多様に語られている。

  1. 清水裕之、21世紀の地域劇場、鹿島出版会、1999年、p.169
  2. 藤野一夫編、公共文化施設の公共性-運営・連携・哲学、水曜社、2011年
  3. 近藤のぞみ、「文化施設が「公共的役割」を果たすために何が必要か」、同上、p46-64
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