芸術監督の部屋 第2部:プログラム提供型機関としての諸課題

2-5 アマチュア活力の減衰、広がらない利用者同士の交流、文化芸術による公共圏の形成はむずかしい

第1部で、公立文化施設の大きな目的の一つは、文化芸術活動をとおした地域における公共圏の形成にあると指摘した。そのためには、地域の人々が、公立文化施設の活動をとおして、積極的なコミュニケーションができる文化交流の場としての環境づくりが期待される。優れた舞台芸術公演を企画することも、練習施設を整備して、地域の文化芸術団体の活動を支援することも、公的資金を使って公立文化施設を整備し、市民の利用に施設を安く提供する理由は大きくはここにあるだろう。しかし、落とし穴はここにもある。

貸館利用の文化施設の場合、ホールを借りる団体、練習室を使う団体はそれぞれ、自分たちが必要とするときに、必要な空間を個別に利用する。しかし、今日、彼ら相互の関係性はほとんどない。戦後、地域の文化芸術活動が解放されたとき、各地で、文化芸術団体が集まり文化協会などと呼ばれる横断型の交流組織が生まれた。ある地域では文化芸術団体が主導し、ある地域では行政の文化担当部局が音頭を取った。70年代、80年代の文化施設建設ラッシュの影には、かれらの活動が大きな後押しになっていた。伝統芸能から、オーケストラ、演劇団体など、様々なジャンルの文化芸術団体が一丸となって、文化ホール建設の要望を出し、計画づくりが始まることが一般的だった。首長や行政にとって、大きな人口を誇る彼らの陳情を無視できなかった。戦後、各地に雨後の筍のように、公立文化施設が建設された背景には、こうした地域の文化芸術活動の高まりがあったのである。戦後の文化施設の設計をリードした佐藤武夫氏はその著書に文化ホール(公会堂)建設にあたっての地域の文化団体との懇談会の記録を掲載している1

実際、1970年頃をピークとして地域の文化芸術団体の活動は大きなうねりとなって盛り上がった。全国各地に第九を歌う会が結成され、多くの地域住民が参加したり、演劇鑑賞会、音楽鑑賞会の組織が立ち上がり、自ら中央の劇団、楽団とネットワークを作り、地域へ質の高い公演を引き寄せる活動が活発化したりした。地域によっては自主映画の上演会などを市民自ら継続企画したり、小劇場の経営を手掛けたり、地域の文化芸術を自ら考えてゆこうとする機運も高まっていた。こうした機運は、ハーバーマスの言う「文芸的公共性」2の日本版の萌芽ともいうことができる。しかし、その後、各地に公立文化施設が整備されることと相対するようにこうした熱いうねりは次第に沈静化してゆく。そして、かつてこうした運動に力を注いだ人々も高齢化し、次第に地域の舞台芸術の現場から離れた。また、若者は公立文化ホールの活動に興味を示さなくなった。今では、お仕着せの連携、協働ではだれも動いてくれない。しかし、公立文化施設は、こうした時代の変化を受け止めることなく、淡々とお定まりの貸館事業を続けている。そして、利用者相互のつながりは希薄化され、それぞれ個別の団体や、個人の利便権益のひとつとして慣性的に利用されているのである。公立文化施設の運営に活気がないのは、それを支える地域の連携、協働のしくみが変化していることに関係があるようにも感じる。各地の公立文化施設がホールボランティアなどの仕組みを取り入れようとしている。それは、強制力の中からではなく、自己実現を図りたいという自発的な意思をとおして、地域の中で協働する仕組みを再生させたいという思いからではないかと考えている。公立文化施設は、これからは、文化芸術に活動をとおして、どんな形で利用者のつながりが生まれ、社会に広く根を張ることができるかを真剣に考えるときに来ていると思う。

  1. 佐藤武夫、公会堂建築、相模書房、1966年
  2. ユルゲン・ハーバーマス、公共性の構造転換、未來社、1973年
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